さぽろぐ

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2017年12月06日

いぬおふもの(犬追物)

(長いので分割して記載)
その濫觴は明確ではないが、遊びというよりはむしろ武藝のうちに数えられる騎射の一種である。犬を追うて射る儀式的のものであって、その昔は猪、鹿などを追いながら射ったから追物射と呼ばれていた。第百八代後水尾天皇の元和年間に多々良一吹著の『後太平記』三十四、犬追物御興行の條に
「前大樹慈照院殿、寛正六年(第百二代後花園天皇の御代―二一二五)八月興行御座しましてより以来、犬追物の御沙汰なかりしかば、武家弓馬の政怠りぬ。今戦世の代に当っては、且太平の政なるべしとて、今年新に是を行われける。抑此犬追物と申すは、昔時神功皇后三韓征伐の御時、彼の三国戦に討負け、終に日本に降伏す、去れ共連々反複の謀怠らざれば、吾朝にも亦武備を設けて、弓馬の技馭断ゆる間もなし。凡そ彼の三国は日本より戌の方に当りぬれば、彼の国の敵をば皆犬と呼びなせり。是れ由緒なきに非らず。亦皇后新羅に討入り給いて、弓筈を以て新羅国の大王は日本の犬なりと書き付け給えば、其字破れ未だ盡きず。爰を以て武家弓馬の政を犬追物といえり。其後久安元年(一八〇五)に当って、近衛院(第七十六代)の御悩急也。時に陰陽博士安部泰成占卜して、是は玉藻の所爲なり、(中略)此の玉藻の前の御事は容色百媚の粧ひ、唯人間にあらず、正しく涅は下野国那須野ノ原の狐にて候、今日君の御猶豫を晴し申すべしとて、太山府君星供(たいざんぷくんしやうじやう)を行い、彼の玉藻ノ御方に天神地祇の幣帛を持たせけるに、忽ち狐と成って飛び去り、御悩軈て平復す。此時三浦介、上總介に勅を下され、那須野ノ原の狐を狩り給う。其儀式弓馬の秘術を盡したれば、是を以て犬追物の式法決定御座します」
とあるが、勿論かかる牽強付会の説をすぐさま信じてしまう譯には行かない。近衛天皇に先立つ事約三十年、第七十三代堀河天皇の御代、後三條天皇の御寵を蒙って大蔵卿の職にあった大江匡房の手記に「堀河院御時、犬狩被閉諸陣、而先例当御物忌。犬狩尤有便(略)」と堂々と記されているし、また、第八十四代の順徳天皇が御筆になった『禁秘御抄』にも「蔵人承仰下知、所衆瀧口帯弓箭、儲所衆衆入縁下狩出、而此後甚見苦、仍好遅参、定蒙召籠、仍衛士幵取、夫人入縁下」と見えている。
要するにこの犬追物は寛正六年以前から既に存在していたものであって、それが鎌倉時代になって武技尊重の表れとして本格的のものに改められたというに過ぎない。その最初の記録は作者・年代ともに不詳だが第八十一代の安徳天皇から第九十代の亀山天皇の御代に亘って記述された『吾妻鏡』の貞應元年(第八十六代後堀河天皇―一八八二)二月六日の條に、幕府の南庭に於て射手四人、犬二十疋で行われたと録されてあり、亦筆者・年代共不詳の『北条九代記』六にも「世の中已に靜謐に属し、新帝(第八十六代後堀河天皇)御位に皍かせ給い、物騒しき年も暮れて、春立つ今日というよりして、京都鎌倉同じく賑い、草木の色も新に見え、鳥の聲まで嬉しげなり。正月七日若君御弓始あり。同二月六日には南庭に於て犬追物有りて、若君殊に御入輿まします。同四月十三日、承久四年を改めて貞觀元年とぞ號しける。」と同様の事が記されてある。続いて同天皇の寛喜二年(一八九〇)正月二十三日にも由比ノ浦で行われた事が同書に載せられているが、北條時代も末期になるにつれて、常に小糶合が絶えなかった結果か、この遊事記録も次第に影を薄め、僅かに第百二代後花園天皇の御代に、伊勢太廟の祠人の女、荒木田麗女がものした『池の藻屑』に第九十八代長慶天皇の永和四年(二〇三八)に行われたことが次のように書かれているのをみるだけである「永和四年と申しき、三月武家には犬追物という事なむ催し侍る。是は往昔鎌倉なる頼朝の大将など、あまたたびさせつる事にて、武士の翫なる事なれど、ちかき世には絶えはてたりしを、こたび興しけるとなむいみじうけうある事とぞと人申し侍る。」これによっても長年月の間中絶していた事がはっきりと立証されている。越えて寛正六年の興行になるのだが、これとても相当の隔りがあるし、次に記録されている第百六代正親町天皇永禄三年(二二二〇)の催しも九十五年の間が置かれてある。前掲の『後太平記』の同じ條に  

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2017年12月04日

いてふうち(銀杏打ち)

互いに同じ数の銀杏を出し合って地上に撒き、それをいろいろの型にならべる。そしてアレ、コレと指示しながら、自分の持っている銀杏を打ちつける。巧く打ち当ればそれを自分の所得とする。さもない時は番を次の者に譲る、という子供達の遊戯で、古くから行われていた形跡がある。

※いたちごっこ(鼬事)は省略  

Posted by keel at 22:55Comments(0)日本の遊戯

2017年12月03日

いたおとし(板落し)

デングリカエリの事を地方によって板落しといっているが、厳格な意味でいえば宙返りの方が当っている。第百二十代仁孝天皇の文化十三年(二四九〇)刊行の喜多村信節の『嬉遊笑覧』は曰ふ。「「東京夢華録駕登實棲諸軍呈百伎條に両々出陣格闘、作奮刀撃刺之態、百端訖一人棄刀在、就地擲身皆着有聲謂之板落云々」。この板落といえるは宙返りなり、筋斗は勢すくなく板落はいたく勢あるさまにや、さてこの戦闘の学び今歌舞伎のタテというものに似たり」とある。「でんぐりかえり」の項を見よ。  

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2017年12月02日

いしひろい(石拾い)

小石の多い道路や河原などで「イシメツカリコ」といいながら、自分の好きな石を拾って、その数の多いのと、形の優れたもの、光沢のあるものなどを拾い集めて優劣を競う遊び。平安朝時代大宮人の間に行われた貝合せという遊びに由来するものではないだろうか。「かいあわせ」  

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2017年12月01日

いしはじき(石彈)

小石を彈いて遊ぶ俗にいう「オハジキ」であって、その昔は小石のみで遊んだものだったが、近世になってキサゴ(細螺)―訛ってキシヤゴといっている―を用いて遊ぶようになった。現在ではオハジキといえばキサゴハジキをすぐ思わせる。平安朝時代には彈碁(ダンキ)といって中高になった特別の碁盤の上で、碁石を彈き合う遊びがあったが、これは上流社會の人々にのみ限られていた。第六十一台朱雀天皇の承平年中に著わされた源順の『和名類聚抄』に「世説云彈碁始自魏宮文帝於此技且好矣。」とあり、第百十四代中御門天皇の正徳二年(二三七二)に寺島良安が著した『和漢三才圖會』には「今云彈碁乃擲石之類而有少異。兒女常弄之。用碁子十有餘、撒之要不攅重、而以手指彈合、取撃当者、復次如之無遺爲勝。如誤撃隣石者爲負。」とある。これから見ても、この時代には彈碁というものがすでに廃れてしまって、極めて一般的に、しかも簡易化されてきたことを物語っている。また第六十三代冷泉天皇の安和年間から第六十六代一條天皇の長保年間までに書かれたという『宇都保物語』の祭の使の條に「中のおとどに庚申し給いて、男女、方わきて石はじきし給う」という一節がある。この例は彈碁のようでもあるが、男女に組を分けて行ったという點から考えて、普通の石彈きであったように想像される。
第九十一条後宇多天皇の御代、御寵を一身にあつめた卜部兼好、後の兼好法師の著『徒然草』に「碁盤のすみに石をたててはじくに、むかひなる石を守りて、彈はあたらず、我手もとをよく見て、ここなるひしりめをすぐにはじけば、たてる石かならずあたる。萬のこと外にむきて求むべからず」とあるが、第百十二代靈元天皇の貞享元年(二三四四)に井原西鶴が著した『二代男』には「藻屑の下のさされ貝の浦めづらかに、手づから玉拾う業して、ままことのむかしを居間にはじきというなどして遊びぬ」とあるから、この時代にはすでに、貝を用いていたことが立証される。『長崎歳時記』に「猫貝を小兒弄ぶことを云て、其法のせはじきと云は貝を握り、手の甲にうけ又手心にうけ、握り取、疊の上にちりたる餘り貝は一々はじき取て勝負を決す。十五握と云は各々貝十二十を出し合せ順々目を塞ぎ面をそむけて、数十五をつかみ取るを勝とす。とんのみと云は各自目印ある貝一つずつ出し合せそれを掌にてふり出し、餘り貝は附せ、一貝仰ぐものを勝とす。」また、『怡顏齋介品』という書物には「きさご肥前にて猫貝と云」と猫貝の、のせはじきがキサゴ遊びである事を示している。
第百二十代仁孝天皇の文政十三年(二四九〇)に喜多村信節の記した『嬉遊笑覧』に「きさごはじきにツマと云はツマヅクの略、ヤツというはやつあたりなり。きさごをかぞふるに、ちうしちうじたこのくはへが十てうと云う。ちうじは重ニなり。それを重ぬれば八ツとなる。章魚の足の数なり、是に又ニツて十になるをいう」とあるが、子供達はそれを訛ってか「ちうちうたこかいな」と数えている。現在行われている「オハジキ」は一握り或は一定数のキサゴを出し合って、これを撒き、重なり合った分はオネボといってそれだけを撒きなおす。こうして拇指と食指とで彈いて当ったものを自分の所得とする。もし当らないか、一彈きに二箇以上に当った場合には次の者に番を譲る。全部支障なく当った時にはオトメといって、何囘でも続ける事ができる。「だんき」  

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2017年11月30日

いしなご(石投子)

平安朝以前から女兒の間に行われていたもので、石投、石子、石擲石、石投子取、石投取とも書く。現在行われているお手玉の全身であって、その古は小石を以て遊んだのでこの名を得た。やり方はお手玉遊びとほとんど変わらないからここにはその説明を省くが、相当広い範囲に行われていたものとみえて、地方地方によっていろいろの呼び名がある。江戸地方では「オテダマ」、東國地方では「イシナンゴ」、「ナツコ」、信州地方の一部では「ハンネイハナ」、出羽地方では「ダマ」、越前地方では「ナナツゴ」、伊勢地方では「ヲノセ」、中國、薩摩の一部では「イシナゴ」等など。第六十一代朱雀天皇の承平年間にものされた源順の『和名類聚抄』によると「梁武帝千字文注云、宣遼者楚人也、能弄丸八在空中一在中、今人之弄鈴也」とある、丸を空に投げ上げることは漢土から渡来したものかも知れないが、石をもって行うことはわが國によって創始されたものでもあろう。第六十八代後一條天皇の長元七年頃(一六九四頃)その上巻が著された作者不詳の『榮華物語』、月宴の巻に「今の上(第六十二代村上天皇天慶九年―一六一五)御心ばへ、あらまほしく、有るべき限りおはしましけり。醍醐の聖帝、世にめでたくおはしましけるに、またこの御門、堯の子の堯ならむやうに、大かた御心ばへ雄々しう、気高く賢うおはすものから、御才も限りなし、和歌のかたにもいみじうしませ給へり。萬に情あり、物のはえおはします事限りなし。(中略)御子うまれ給へるは、さる方に重々しくもてなさせ給ひ、さらぬは、さべう御物忌などにて、つれづれに思さるる日などは、おまへに召し出でて、ご、すごろくうたせ、へんをつかせ、石などりをさせて、ごらんじなどまでぞおはしましければ、皆かたみに、なさけをかはし、をかしうなんおはしあひける」とあり、また同時代の撰に成る『拾遺集』十八賀に、「春宮の石などりの石めしければ、三十一をつつみて一ツに一ともじを書てまいらせける(読人不知)―苔むさばひろひもそへんさざれ石の数をみなとるよはひ幾よぞ」。同じ時代の女流歌人赤染衛門の歌にも「女院の姫きみときこえさせし頃いしなとりの石をめすを参らすとて―すべらぎのしりへの庭のいしそこはひろふこころありあゆかせてとれ。」というのがある。
第七十六代後白河天皇が保元三年(一八一八)に御譲位あらせられたあと、お撰びになったと傅へられる『梁塵秘抄』には、「羽なき鳥の様かるは、炭取、揖取、掻縺(カヒモドリ)、石取り、虎杖、垣生に生うてふ菝葜(サルトリ)や、弓取、筆取、小弓の矢取とか」、と記されている、どういう意味か解しかねるが当時の今様風のものではないかと考えられる。現在行われているこの遊びにはお手玉をとりながら必ず「一、二、三、四」などなど数を読むのが普通となっているが、その昔はされおき、源平時代にはすでにその数が読まれていたことが『源平盛衰記』巻三十四、知康藝能の條に書かれてある。『源平盛衰記』は著者・年代とも明瞭でないが、第八十六代後堀河天皇の嘉禄二年(一八八六)から、第百七代後陽成天皇の慶長四年(二二五九)までに記述されたものといわれる。
「子息左衛門督賴家の、未だ少くて十萬殿と申しける時、招き寄せ給ひて、あの知康は九重第一の手皷と一二との上手ときく、是にて皷と一二と有るべしといへとて、手皷に砂金十二両取添えて奉り給ひたれば、十萬殿是を持ちて簾中より出でゝ知康にたびて、一二と皷と有るべしと、勤め給ひければ、知康畏って賜って、先づ皷を取って、初めには居ながら打ちけるが、後には跪き、直垂を肩脱ぎて様々打って、結句は座を起つて、十六間の侍を打廻って柱の本ごとに無盡の手を躍らしたり、宛轉たり、腰を廻し肩を廻して打ちたりければ、女房男房心を澄し、落涙する者多かりけり。其後十二両の金を取りて云く、砂金は我朝の重賓なり、輙く争か玉に取るべきと申して、懐中する儘に庭上に走り下りて、同じ程なる石を四とり持ちて、目より下にて、片手を以て数百千の一二を突き、左右の手にて数百萬をつき、様々乱舞して、をうゝ音(こゑ)を擧げて、よく一時突きたりければ、其座に有りける大名小名、興に入りてゑつぼの會なりけり。兵衛佐も見給ひて、誠皷というとは名を得たるものと云うに合いて、其験ありけりとて感じ入り給へり。」
降つて第七十四代鳥羽天皇が保安四年(一七八三)に御譲位あらせられてから北面武士として親寵を蒙った佐藤義清、西行法師がものした『山家集』にも「石なごの玉のおちくるほどなきに過ぐる月日は変わりやはする」という一首が残されている。徳川の末期第百十九代光格天皇の文化十一年(二四七四)村田春海の著、『笠志船物語』に「いかなる名ぞとの給へば、守千引とよべば、かしこまりておまへにいで、丈立ち高く、太かに肥たり、君は雄々しのさまよと見給う。これなん力ある事人にすぐれ侍る。千人引之岩をも石投取の石とる計りにとりなし侍れば、然なん人のよび侍る」とある。第百十八代後桃園天皇の安永年間にものされた谷川士清の『和訓栞』に「法隆寺の賓物にいしなどりの玉あり、小兒の語に小石をいしなという、伊勢に石名原あり奥州に石名坂あり云々。」第百二十一代孝明天皇の嘉永六年(二五一三)に刊行された喜多川守貞の『漫稿』には「いしなごと云、今京阪地方にてはいしなごとりと云、女童集り各々小石或ニ、或三つを集め一童持之席上に抛蒔き其数石の内一石を取り、是を尺ばかり或は二尺三尺上になげ上げ、落来る間に二石をとりて後、落る石を受け席上の石とり盡せば再蒔散之、今度は三石ずつを取て落る石を受、三四囘に至り畢とす。半に受過る時は次の童に譲る云々」と書かれている。文献に示されてから九百餘年、殆ど千年近くの間多少の変化があったにしろ、そのままに傅へられてきた遊びはまづ珍とするに足りよう。  

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2017年11月29日

いしなげ(石投げ)

「擲石」とも書くが、「ツンバイ(飄石)」・「イシウチ(石打)」・「ツブテウチ(礫打)」いずれも同じもので、他に「インヂウチ(印地打)」と呼ばれるものもあるが、これは多数集まって礫を打合う、所謂石合戦のことをさす。石投げには手で投げる原始的のものと、器具を使って投げる軍器的のものとがある。前者は穴居時代から生活の糧を得る爲、或は自己防衛の手段として行われて来たもの、後者は戦の用具として考案され、使用されて来たものである。第四十五代聖武天皇の天平元年(一三八九)七月七日、山上憶良が天河を仰いで詠んだという歌に「多夫手ニ毛投越都倍技天漢敞大而禮婆可母安麻多須辨奈吉(タブチニモナゲコシツベキアマノカハヘタテレバカモアマタスベキナキ)」という一種がある、『萬葉集』の八、秋の雜詠に載せられているが、橘千蔭の『略解』に、「たぶては飛礫にて今つぶてといへり。語のもとは手棄(タウテ)なるべし。うてはすつると云古言也、天河は目には近く見ゆれども隔てたればにや便もなくてせん方なきと也」、とある。これは前者をいったものであって、後者の考証としては『日本書紀』に「推古天皇廿六年(一二七七)秋七月、癸酉朔。高麗遣使、貢方物、因以言。隋焬帝與三十萬衆攻我。返之爲我所破。故貢獻俘虜貞公普通二人、及皷吹弩抛石之類十物。」また第六十九代後朱雀天皇の長曆、長久年間にものされたという藤原明衡の『本朝文粹』に「善相公意見封事之内、臣伏見、本朝器弩爲神云々、古語相傅云。此器、神功皇后、奇巧妙思、別所製作也。大唐雖有弩名、曾不如此器之勁利也。」というのがある。新古の問題は別として、器具を用いたものは古くから軍事的に行われていたと見ることができる。この他簡単なものには網状のものに石をのせて投げる「雁殺し」、二尺くらいの竹の先を二つに割って、その間に石を挟んで投げる「竹ハサミ」というものなどがある。「いんぢうち」、「がんころし」の項を参照。  

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2017年11月28日

いしつみ(石積み)

「イシクヅシ」の逆であって、互に同数の石を持ちあい、順次にこれを積上げる。もし崩れたらその石はそのまま無効となって次の者に代る、こうして早く積み終わった者の勝となる。  

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2017年11月27日

いしけん(石拳)

拳の一種で、古くから子供達の間に行われている。俗に「ジャンケン」ともいっているが、片手でやるのが普通で、五指を全部開いたものを紙、握ったものを石、食指と中指とを伸ばしたものを鋏と呼んでいる。そして紙は石に勝ち、石は鋏に勝ち、鋏は紙に勝つ。方法にもニ・三あるが、一度で勝敗を決するもの、三度続けてやるもの、又石をグウといい、紙をパラリ、鋏をチョキといって相手方が出したものを同時に出したものを負けとするのもある。「けん。」  

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2017年11月26日

いしくずし(石崩し)

古くから子供た達の間に行われていた遊びで、まず小石を山のように積み上げておいて、順番にこの石を一箇ずつ取り、若し取った時にほかの石が少しも動かなければ続けて取ることができるが、少しでもほかの石が動けば次の者に代らなければならない。将棋の「フリシヤウギ」の駒の取り方と同一である。

※いしうち(石打)は省略。いしあわせ(石合せ)は省略予定だったが以下にに記載
「ナンコ(藏鉤)」の一種で、両手に握った小石の数を合わせ、数の多いものを勝ちとする遊びである。「なんこ。」の項を参照。  

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2017年11月25日

いくさあそび(軍遊び)

この遊びは、ここに説明するまでもなく、吾々人間が地上に生まれ出てから、種々の変化はあっても、何れの國、何れの時代を問わず、子供達の間に行われて来たものである。第七十七代後白河天皇が保元三年(一八一八)に御譲位遊ばされてから御撰びになったという『梁塵秘抄』、雜八十六首の中に、「武者を好まば小屋並び、狩を好まば綾藺笠、捲り上げて、梓の眞弓を肩にかけ、軍遊びよ軍神。」という歌さえある。ましてわが國では源平時代以後戦乱の巷に育まれた子供達は、武家・町家の差別なく、一層さかんに遊ばれた。年代・著者共に不詳であるが、花園天皇から後村上天皇に至る四十五年間の史實をものした『太平記』十六、第九十六代後醍醐天皇の延元元年(一九九六)正成首送故郷の條に、「正行、父の遺言、母の教訓、心に染み、肝に銘じつつ、或時は童部共を打倒し、首を取る真似をして、是は朝敵の首を取る也と云い、或時は竹馬に鞭を当てて、是は将軍を追懸け奉るなんど云いて、はかなき手ずさみに至るまでも、唯此事をのみ業とせる、心の中こそ恐ろしけれ。」とある。子供心にも朝敵を討つという念願からではあったろうが、所謂軍遊びを常にやっていたことがうなずかれる。その後豊臣時代に入ってから天正十六年、武家に非らざるものの帯刀を悉く沒収し、また、徳川時代になってからは町人の武事を一切禁止したので、この遊びも一時は武家の子弟のみの獨占となっていたと傅へられる。最近では映晝を受けて、到る處にチャンバラという姿でもって行われていたけれども、再び新式の軍遊びが有勢になってきた。

※いかご(烏賊子)いかのぼり(烏賊幟)は省略  

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2017年11月24日

あんま(按摩)

「目隠し鬼」の一種で、多数で手を繋いで円陣を作り、一人を按摩に擬して手拭で目隠しをさせ、園の中央に蹲かせる。周囲の者は、「按摩さんゝ、上下いくらで揉みますか、それはあんまりお高いね。」などと按摩に関係したいろいろの歌を唄いながら円を徐々に廻らせる。そして歌が終わるや否や、蹲んでいた按摩は立ち上がって、周囲の一人をつかまえ、揉む真似をしてその者を笑わせる。その聲を判断して誰であるかをいい当てるのであるが、江戸時代になってから行われたものらしい。  

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2017年11月23日

あやとり(綾取)

古くから行われていた女皃の遊びであって、長さ約1・5メートルの絲を結んで輪を拵へ、これを左右の手首にかけ、更にその絲を両の手首に一巻きずつまきつけた上、左右の拇指に引っ掛けて最初の形を作る。他の一人はその拵へた形を拇指と食指で違った形になおし、自分の両手に移す。こうして順次交互に型の変わったものを作って遊ぶのであるが、極めて優雅なもので、その形には橋・琴・皷・船などといろいろある。この遊戯が最も持て囃されたのは元禄時代で、当時は女皃のみに限らず、一般の婦女子にまで行われたことが、文獻によっても知られる。それがために特別の綾取絲まで製られたとか。これという考証もないが、恐らく平安朝時代から行われていたものではないかと考えられる。第百十三代東山天皇の元禄初年(二三四八頃)、西鶴がものした『諸艶大鑑』ニに、「書物見にも優し、菊の一枝に詠め入る心ありげに想わる。或は手相撲、又は何箇呼ぶもあり。火渡し、絲取、浄土雙六、心に罪無く浮かれ遊ぶ。」とあり、また、第百二十一代孝明天皇の嘉永六年(二五一三)に刊行された喜多川守貞の『漫稿』に、第百十六代桃園天皇の寶暦十三年(二四二三)の印本に載せられたという少女の圖を掲げそれに説明を加えて、「右ニ少女の所爲を江戸にてあやとり、京阪にては絲取と云戯也。圖の如く手くびに繞ひ琴形、皷形、目鑑形等ニ女互相譲りて爲之の戯也」。近年の小皃は稀に弄之と雖ども不流行也。文化前専ら弄之せる也。」といっている。
  

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2017年11月22日

あめんぼうつり(水馬釣)

水馬は、春から夏にかけて池や水たまりなどによくいる蟲であって、「ミズスマシ」ともいわれているが、飴のような臭いがあるので、「飴ン棒」という説もある。第百十四代中御門天皇の正徳三年(二三七三)寺島良安の著、『和漢三才圖會』に、「鰹蟲(かつをむし)、鹽賣(しほうり)」とあり、「本綱、水馬羣游水上、水涸皍飛。長寸許、四脚非海馬之水馬也。有毒殺鶏犬。」と記し、「按水馬處々池川皆有、頭尾尖、両髭曲、高脚長身、其色赤黒而以鰹脯、故曰鰹蟲、小皃以蠅釣之也。」とある。支那にも同様の遊びがあるとみえて、『五雜俎』という書物に、「水馬逆流水而躍水、日奔流而歩不移尺寸、皃童捕之、輙四散奔迸。惟嗜蠅、以髪繁蠅餌之、則擒抱不脱。釣至案几而不知。」といっている。蠅が頗る好物らしく、机上に載せられても、知らないというほどであるから、その徹底ぶりには感服させられる。現在でも子供達は、馬の尾毛などに蠅を結び附けて、この蟲を釣っているのをよくみる。けれども、ただ釣って遊ぶというだけで、何の意味もない。  

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2017年11月21日

あぶりだし(炙出し)

古くからある子供の遊びであって、ある白紙の切れを火の上で炙ると、さまざまの絵や字が、黒く表れてくる。子供達は「何が出る?」などと、あてっこして遊ぶ。明治の中頃までは、縁日商人などの手によって商われていた。第百二十代仁孝天皇の文政十三年(二四九〇)の刊、喜多村信節の書畫の部に、「物理小識八、礬書白字」とあって「皂攀水寫字、入五倍子水中、鹽滷寫紙烘以火草、麻子油寫撒紙、灰或杏仁灰俱可見、又曰、白艾研汁入礦灰、書黄竹紙俱如丹、これ今のあぶり出しと云うもの也。ここにてするは酒をもて物を書き、火にてあぶる異国の方よりも簡易なり。」といっているが、より以上に容易な方法は、鹽を水に溶かすか、或は蜜柑の搾り汁で白紙に好きなものを書いて乾かした上、火の上に翳すと、書いたものが、黒く現れるといわれている。文政十三年以前から、広く行われていたものとみえる。  

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2017年11月20日

おうぎびき(扇引)

幾本かの違った扇に、色とりどりの紐を附けてこれを鬮引かせ、一番綺麗なものを引き当てたものが大いに喝采されるという遊戯で、平安朝時代から宮中の女房たちの間に行われていた。今でいう福引の一種である、第七十三代堀河天皇の嘉承二年(一七六七)六月、この遊びを行わせわれたことが『讃岐典侍の日記』に
「六月になりぬ。暑さ所せきにも、まづこぞの此の頃は、事もなく御心地よげにあそばせ給いて、思し召し事なれば、まづあすとて我は出でて人たち待ちしに、二車ばかりのりつれて、日ぐらし遊びて歸りしにみれば、こよひとまりて心やすき所にてうちやすまんと思いてとどまりしを、常陸殿という女房、あなゆゆし、ただ参らせ給え、扇引など人々にせさせんなどありし、御扇どもまうけて待ち参らせ給うに、とあれば、此の人たちに具して参りぬ。待ちつけて、泉のありさまうちうちに問いなどして、扇引、こよひはさは、と仰せられしかば、あけんが心もとなさに、こよひと思うに、人たちのけしきのくらくて、見えざらんこそ口をしく候へ、と申ししかば、つとめて明くるやおそきと始めさせ給い、人たち召しすえて、大貳三位殿をはしつめて、ゐあはれたりしに、まづ引け、と仰せられしかば引きしに、うつくしと見しをえ引きあてで、中にわろかりしを引きあてたりしを上に投げおきしかば、かかるやうやある、とて笑わせ給いたりし事を、但馬殿という人の、家の子の心なるやこと人はえせじ。など興じあはれしに、そのをりは何ともおぼえざりし事さへ、いかでさはし参らせけるにかと、なめげに、けふはありがたく覺えゆる。」
とみえている。また第七十六代近衛天皇の久安六年(一八一〇)六月廿二日、丁卯にこの遊戯を行わせられたことが、時の太政大臣藤原頼長の日記『臺記』に、「今日有立后事、辰刻参朝餉、有扇引事、八月四日丁未、丑刻参朝餉、有扇引與。」と記されている。けれども武人の世になってからは、自然とこれは顧みられなくなって、名こそ同じ「扇引」であるが、似ても似つかぬ力比べと変わってしまっている。この力比べは、拇指と食指とで扇を挟んで雙方で引き合う遊びであって、指力の優れた者が勝ちになることはいうまでもない。  

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2017年11月17日

おうぎきり(扇切)

此の遊びは、遊戯というより一種の武芸と言ったほうが良い。勿論武人の間にのみ行われたものであって、その方法は明瞭でないが、一説によると、まず扇を刀の柄の上に立てて、その扇が地上なり、床上なりに落ちない内に、早く刀を抜いて扇を切るものだと言われている。作者・年代共に明らかでないが、武田一家のことを記述した『甲陽軍鑑』十六に、「武田信勝十一歳の時、小姓友野一郎と日向傅次と扇切いたせと御意の時、又一郎は腰にさしたる扇をぬく。傅次は手に持ちたる扇を腰にして指をたてて、向かう時、信勝はや見えたるぞ、おけ、扇切に傅次は勝たりと心の逸物なるをほめ給う。」とあり、これについて喜多村信節は、『嬉遊笑覧』に、「いあい抜が扇を空に投て地に落さず抜打にきる事をする、是もそのたぐいとみゆれど指立てて向かうとなれば、扇を投付などするを指にて撃ち落とすわざにや」といっている。第百九代明正天皇の寛永十年(二二九三)刊行の「誹諧発句集」に、「骨折て勝まけはなに扇切―宗富。」という一句がある。その方法は別として、天正以前から武人の間に行われていたものと考えてもよかろう。  

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2017年11月16日

おうぎあわせ(扇合)

いつの時代から始められたものか明らかでないが、第六十四代円融天皇の御代には行わせられたことが、当時書き残された『円融院扇合』に、
「宮の御方にうえおわしまして、らご(亂碁)とらせ給いて、かたせ給えるかちわさ、六月十六日にうえせさせ給う。梅つぼにわたらせ給えるに、殿上人中少将をはじめてとりつづきまいる。南は御すだれより外にあげて袖ぐちどもとりいる、したんのをきくちしたるらてんの御宮に、緋扇十枚入れさせ給いて、からのうすもののすはうのすそごのさいでにつつみて、同じ紫のくみして、白がねを桔梗をみなえしの枝に造りて付けさせ給えり。白がねこがねのこものしたに、からの羅をあい色に染めて、ひとえにてはれるもあしでにて―君が代を松ふく風にたぐえとぞかへすちとせのためしなりける―しろがねをば、まづ萩のかたちに色どりて、からの羅を浅みどりにしてはれり、それにあしでにてぬえるなんめりき―澤に住むたづの羽かぜに涼しきは君が千とせをあうぎなるべし―」
と記されている。その方法は数人の者が左右の二組に分かれ、各自美しい小筥の中に、思いゝに数寄を凝らした扇を入れて出し合い、風流の趣向の優れたものの方を勝ちとする。これは勿論殿上人の慰みであって、地下ではあまり行われなかったものらしい。その後、第七十三代堀河天皇の寛治三年(一七四九)八月二十三日、後冷泉天皇の御后が宇治で行わせられたことが記録にあり、更に第七十五代崇徳天皇の保延元年(一七九五)に催されたことが『長秋記』に、
「保延元年五月十七日己丑、女院近習女房殿上人、左右各十余人、調扇紙可合之由申来云々。今日有其事、左方坊門殿小因幡、美濃大宮少将、少輔男公能朝臣、公道、光忠、光隆、爲盛、蔵人清則、右大炊殿土佐、侍従、小少将、紀男。男經宗朝臣、爲通、師中、爲成、範高、清重。臨期上皇御幸。右方女房著種々装束、出自几丁帳、寝殿於南廂有此事。垂母屋御簾。右方二階上置紙筥十一、各所進也。敷龍鬢其上、二階敷唐錦茵、以扇爲様。左方無其設、只進紙不出合筥、或以銀作是、或巻付、或只裏紙云々」
と記されてある。けれども武家が政権を握るようになってから、この遊びも漸く影が薄くなって来て、僅かに年代・筆著共に未詳の『源平盛衰記』十二、第八十代高倉天皇の治承三年(一八三九)十一月十五日、関白基房流罪の條に、「野路宿にもかかりぬれば、枯野の草に置ける露、日影に解けて旅衣、乾く間もなく絞りつつ、篠原の東西を見渡せば、遥かに長き堤あり、北には郷人棲をしめ、南には池水遠く清めり、遥かに向こうの岸の汀には翠深き十八公、白波の色に移りつつ、南山の影を浸さねども、青うして滉瀁たり。洲崎にさわぐ鴛鴦鷗の、葦手を書ける心地して、鏡宿にも着きぬれば、むかし扇の繪合に、老いやしぬらん。と詠じけんも此の山の事なり」とあり、同じく鳥羽法皇御寵居の條に、「鳥羽殿には月日の重なるに付けても御歎は浅からず、折々の御遊、所々の御幸、御賀の儀式目出度かりし、今様朗詠の興ありし事、扇合、繪合までも忘るる御隙なく、只今の様にぞ思し召し出されける。」とある。いずれもすでに思い出として記されてはいるが、当時はまだ時にふれ折にあたって遊びごととされていたものと見える。第八十一代安徳天皇の壽永三年(一八四四)七月、平家が没落してから後、扇合の遊びは全くその後を断ってしまったらしく、作者・年代共不明であるが、例の『平家物語』十一、小朝拜の條に「平家は讃岐の國屋島の磯に送り迎えて、年の始なれ共、元日、元三の儀式事よろしからず(中略)花のあした月の夜、詩歌、管絃、毬、小弓、扇合、草づくし、蟲づくし、さまざま興ありし事共思い出、かたりつづけて、永き日をくらしかね給うぞあはれなり。」と、いかにも遠き古の追憶のように記されている。  

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2017年11月15日

あなおに(穴鬼)

はっきりした考証はないが、この遊びは源平時代すでに行われていたものであって、徳川時代にはそれが最高潮に達したものだと言われている。その遊び方は一人を鬼として他の者は一列となって、内向の円陣を作る。合図とともに鬼は円の周囲を駆けまわり、任意に一人の背中を打ち、そのまま走って円を一周して、早くその場に入ろうとする、打たれたものは鬼と反対の方向から走り出して、自己の場所を鬼に占領されぬ内に入ろうと争う、こうして早くその位置に入った者の勝ちとなる。現今国民学校などで行われている「場所取り鬼」、「位置取りおに」はこの遊びをそのまま採用したものといえる。
  

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2017年11月14日

あないち(穴一)

古くから行われた遊戯であるが、遊びというよりはむしろ賭博と言ったほうが当たっている。「ゼニウチ」と同一のものであるともいい、また変化したものだとも言われている。「意銭(ゼニウチ)」は第六十一代朱雀天皇の御代、承平年中(一五九一後)に源順が著した『和名類聚抄』に「意銭後漢書注云意銭」とあり、第百十四代中御門天皇の正徳二年(二三七二)寺島良安のものした『和漢三才図会』には「和名抄載後漢書注、意銭今之攤銭也。蓋以手有所搓謂之攤」と前書きして「按意銭俗云穴撃之類乎。銭撃之和名叶之。但銭攤之訓不叶。今僮皃多弄之。二人或三人銭出合互更撃之、横引筋於地撒銭、一銭有掌以之撃敵所指銭。中則爲勝如、誤中他銭則爲負。初撒時誤出筋外則爲負」と説明を加えた上更に「種地掘穴可容銭、而覘穴擲銭、入穴者爲自得取之。穴外銭任敵請撃之、中則爲勝、其餘如上法、云々」とある。また大槻文彦博士の『言海』にも「下民ノ小皃ノ賭戯、地ニ線ヲシルシ、数銭ヲ抛チ別ニ一銭ヲ以テ、敵ノ指ス銭ニ打チツケ、中ルヲ勝トス、アナイチ、攤銭」と記している。以上の考証から言えば「アナイチ」と「ゼニウチ」とは同一のものかとも考えられるが、果たして同一のものとすれば、この遊戯はすでに平和ん時代に行われ、徳川時代に入ってから大いに流行したものらしい。
第百三代東山天皇の元禄十二年(二三五九)に『役者口三味線』を著して頓にその名を知られた江島其磧の『賢女心粧』に「をのこのすなる石取、穴一などの組合はざる悪遊び云々」とあり、『長崎歳時記』正月二日の條に「此日は市中家並に暁起し、店先に簾を垂れ家内賑わう。男女小皃の戯は破魔弓、雙六、猫具、毛毬、はご板、紙打なり。下賤の輩はスホ引き、ヨセ、ケシ、カンキリ、カラハ筋打などして楽しむものあれど、右は博奕に似たるとて親々堅くこれを禁ずるものなり」と図解を載せ「スホ引は寶引の事にして以下は皆銭を投げる遊戯なり。カンキリは普通の穴一にして、カハラ一名穴ポンと云えば穴のまわりに輪を書きたり。筋打は江戸にてキズと言うものなり。ヨセは小さき木を地に立て線を投げるに其木のもとによるをよしとす。ケシは地にうず巻を書き、投げる銭其の正中によるほど勝とす。うつ銭をバツソウと名づく云々。けれども第百十九代光格天皇の文化三年(二四六六)、幕府は同技を博奕に類するものとして、ろくど、辻寶引、道中双六その他一切の賭勝負と共に禁止、した。当時女皃が弄んだ手鞠の歌にも「三ツとや、皆さん子供衆は楽遊びゝ、穴一、こまどり、羽子をつく」、というのがあるくらいに流行を極めたものであった。遊戯法は『和漢三才図会』に詳しいからここに省くが、穴一の語源は穴の前に一線があるところから、こう呼んだものと思われる。  

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