さぽろぐ

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札幌市豊平区の端っこ(現在・東京都新宿区)でアプリ企画とかやってるおっさん
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2017年11月21日

あぶりだし(炙出し)

古くからある子供の遊びであって、ある白紙の切れを火の上で炙ると、さまざまの絵や字が、黒く表れてくる。子供達は「何が出る?」などと、あてっこして遊ぶ。明治の中頃までは、縁日商人などの手によって商われていた。第百二十代仁孝天皇の文政十三年(二四九〇)の刊、喜多村信節の書畫の部に、「物理小識八、礬書白字」とあって「皂攀水寫字、入五倍子水中、鹽滷寫紙烘以火草、麻子油寫撒紙、灰或杏仁灰俱可見、又曰、白艾研汁入礦灰、書黄竹紙俱如丹、これ今のあぶり出しと云うもの也。ここにてするは酒をもて物を書き、火にてあぶる異国の方よりも簡易なり。」といっているが、より以上に容易な方法は、鹽を水に溶かすか、或は蜜柑の搾り汁で白紙に好きなものを書いて乾かした上、火の上に翳すと、書いたものが、黒く現れるといわれている。文政十三年以前から、広く行われていたものとみえる。  

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2017年11月20日

おうぎびき(扇引)

幾本かの違った扇に、色とりどりの紐を附けてこれを鬮引かせ、一番綺麗なものを引き当てたものが大いに喝采されるという遊戯で、平安朝時代から宮中の女房たちの間に行われていた。今でいう福引の一種である、第七十三代堀河天皇の嘉承二年(一七六七)六月、この遊びを行わせわれたことが『讃岐典侍の日記』に
「六月になりぬ。暑さ所せきにも、まづこぞの此の頃は、事もなく御心地よげにあそばせ給いて、思し召し事なれば、まづあすとて我は出でて人たち待ちしに、二車ばかりのりつれて、日ぐらし遊びて歸りしにみれば、こよひとまりて心やすき所にてうちやすまんと思いてとどまりしを、常陸殿という女房、あなゆゆし、ただ参らせ給え、扇引など人々にせさせんなどありし、御扇どもまうけて待ち参らせ給うに、とあれば、此の人たちに具して参りぬ。待ちつけて、泉のありさまうちうちに問いなどして、扇引、こよひはさは、と仰せられしかば、あけんが心もとなさに、こよひと思うに、人たちのけしきのくらくて、見えざらんこそ口をしく候へ、と申ししかば、つとめて明くるやおそきと始めさせ給い、人たち召しすえて、大貳三位殿をはしつめて、ゐあはれたりしに、まづ引け、と仰せられしかば引きしに、うつくしと見しをえ引きあてで、中にわろかりしを引きあてたりしを上に投げおきしかば、かかるやうやある、とて笑わせ給いたりし事を、但馬殿という人の、家の子の心なるやこと人はえせじ。など興じあはれしに、そのをりは何ともおぼえざりし事さへ、いかでさはし参らせけるにかと、なめげに、けふはありがたく覺えゆる。」
とみえている。また第七十六代近衛天皇の久安六年(一八一〇)六月廿二日、丁卯にこの遊戯を行わせられたことが、時の太政大臣藤原頼長の日記『臺記』に、「今日有立后事、辰刻参朝餉、有扇引事、八月四日丁未、丑刻参朝餉、有扇引與。」と記されている。けれども武人の世になってからは、自然とこれは顧みられなくなって、名こそ同じ「扇引」であるが、似ても似つかぬ力比べと変わってしまっている。この力比べは、拇指と食指とで扇を挟んで雙方で引き合う遊びであって、指力の優れた者が勝ちになることはいうまでもない。  

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2017年11月17日

おうぎきり(扇切)

此の遊びは、遊戯というより一種の武芸と言ったほうが良い。勿論武人の間にのみ行われたものであって、その方法は明瞭でないが、一説によると、まず扇を刀の柄の上に立てて、その扇が地上なり、床上なりに落ちない内に、早く刀を抜いて扇を切るものだと言われている。作者・年代共に明らかでないが、武田一家のことを記述した『甲陽軍鑑』十六に、「武田信勝十一歳の時、小姓友野一郎と日向傅次と扇切いたせと御意の時、又一郎は腰にさしたる扇をぬく。傅次は手に持ちたる扇を腰にして指をたてて、向かう時、信勝はや見えたるぞ、おけ、扇切に傅次は勝たりと心の逸物なるをほめ給う。」とあり、これについて喜多村信節は、『嬉遊笑覧』に、「いあい抜が扇を空に投て地に落さず抜打にきる事をする、是もそのたぐいとみゆれど指立てて向かうとなれば、扇を投付などするを指にて撃ち落とすわざにや」といっている。第百九代明正天皇の寛永十年(二二九三)刊行の「誹諧発句集」に、「骨折て勝まけはなに扇切―宗富。」という一句がある。その方法は別として、天正以前から武人の間に行われていたものと考えてもよかろう。  

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2017年11月16日

おうぎあわせ(扇合)

いつの時代から始められたものか明らかでないが、第六十四代円融天皇の御代には行わせられたことが、当時書き残された『円融院扇合』に、
「宮の御方にうえおわしまして、らご(亂碁)とらせ給いて、かたせ給えるかちわさ、六月十六日にうえせさせ給う。梅つぼにわたらせ給えるに、殿上人中少将をはじめてとりつづきまいる。南は御すだれより外にあげて袖ぐちどもとりいる、したんのをきくちしたるらてんの御宮に、緋扇十枚入れさせ給いて、からのうすもののすはうのすそごのさいでにつつみて、同じ紫のくみして、白がねを桔梗をみなえしの枝に造りて付けさせ給えり。白がねこがねのこものしたに、からの羅をあい色に染めて、ひとえにてはれるもあしでにて―君が代を松ふく風にたぐえとぞかへすちとせのためしなりける―しろがねをば、まづ萩のかたちに色どりて、からの羅を浅みどりにしてはれり、それにあしでにてぬえるなんめりき―澤に住むたづの羽かぜに涼しきは君が千とせをあうぎなるべし―」
と記されている。その方法は数人の者が左右の二組に分かれ、各自美しい小筥の中に、思いゝに数寄を凝らした扇を入れて出し合い、風流の趣向の優れたものの方を勝ちとする。これは勿論殿上人の慰みであって、地下ではあまり行われなかったものらしい。その後、第七十三代堀河天皇の寛治三年(一七四九)八月二十三日、後冷泉天皇の御后が宇治で行わせられたことが記録にあり、更に第七十五代崇徳天皇の保延元年(一七九五)に催されたことが『長秋記』に、
「保延元年五月十七日己丑、女院近習女房殿上人、左右各十余人、調扇紙可合之由申来云々。今日有其事、左方坊門殿小因幡、美濃大宮少将、少輔男公能朝臣、公道、光忠、光隆、爲盛、蔵人清則、右大炊殿土佐、侍従、小少将、紀男。男經宗朝臣、爲通、師中、爲成、範高、清重。臨期上皇御幸。右方女房著種々装束、出自几丁帳、寝殿於南廂有此事。垂母屋御簾。右方二階上置紙筥十一、各所進也。敷龍鬢其上、二階敷唐錦茵、以扇爲様。左方無其設、只進紙不出合筥、或以銀作是、或巻付、或只裏紙云々」
と記されてある。けれども武家が政権を握るようになってから、この遊びも漸く影が薄くなって来て、僅かに年代・筆著共に未詳の『源平盛衰記』十二、第八十代高倉天皇の治承三年(一八三九)十一月十五日、関白基房流罪の條に、「野路宿にもかかりぬれば、枯野の草に置ける露、日影に解けて旅衣、乾く間もなく絞りつつ、篠原の東西を見渡せば、遥かに長き堤あり、北には郷人棲をしめ、南には池水遠く清めり、遥かに向こうの岸の汀には翠深き十八公、白波の色に移りつつ、南山の影を浸さねども、青うして滉瀁たり。洲崎にさわぐ鴛鴦鷗の、葦手を書ける心地して、鏡宿にも着きぬれば、むかし扇の繪合に、老いやしぬらん。と詠じけんも此の山の事なり」とあり、同じく鳥羽法皇御寵居の條に、「鳥羽殿には月日の重なるに付けても御歎は浅からず、折々の御遊、所々の御幸、御賀の儀式目出度かりし、今様朗詠の興ありし事、扇合、繪合までも忘るる御隙なく、只今の様にぞ思し召し出されける。」とある。いずれもすでに思い出として記されてはいるが、当時はまだ時にふれ折にあたって遊びごととされていたものと見える。第八十一代安徳天皇の壽永三年(一八四四)七月、平家が没落してから後、扇合の遊びは全くその後を断ってしまったらしく、作者・年代共不明であるが、例の『平家物語』十一、小朝拜の條に「平家は讃岐の國屋島の磯に送り迎えて、年の始なれ共、元日、元三の儀式事よろしからず(中略)花のあした月の夜、詩歌、管絃、毬、小弓、扇合、草づくし、蟲づくし、さまざま興ありし事共思い出、かたりつづけて、永き日をくらしかね給うぞあはれなり。」と、いかにも遠き古の追憶のように記されている。  

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2017年11月15日

あなおに(穴鬼)

はっきりした考証はないが、この遊びは源平時代すでに行われていたものであって、徳川時代にはそれが最高潮に達したものだと言われている。その遊び方は一人を鬼として他の者は一列となって、内向の円陣を作る。合図とともに鬼は円の周囲を駆けまわり、任意に一人の背中を打ち、そのまま走って円を一周して、早くその場に入ろうとする、打たれたものは鬼と反対の方向から走り出して、自己の場所を鬼に占領されぬ内に入ろうと争う、こうして早くその位置に入った者の勝ちとなる。現今国民学校などで行われている「場所取り鬼」、「位置取りおに」はこの遊びをそのまま採用したものといえる。
  

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2017年11月14日

あないち(穴一)

古くから行われた遊戯であるが、遊びというよりはむしろ賭博と言ったほうが当たっている。「ゼニウチ」と同一のものであるともいい、また変化したものだとも言われている。「意銭(ゼニウチ)」は第六十一代朱雀天皇の御代、承平年中(一五九一後)に源順が著した『和名類聚抄』に「意銭後漢書注云意銭」とあり、第百十四代中御門天皇の正徳二年(二三七二)寺島良安のものした『和漢三才図会』には「和名抄載後漢書注、意銭今之攤銭也。蓋以手有所搓謂之攤」と前書きして「按意銭俗云穴撃之類乎。銭撃之和名叶之。但銭攤之訓不叶。今僮皃多弄之。二人或三人銭出合互更撃之、横引筋於地撒銭、一銭有掌以之撃敵所指銭。中則爲勝如、誤中他銭則爲負。初撒時誤出筋外則爲負」と説明を加えた上更に「種地掘穴可容銭、而覘穴擲銭、入穴者爲自得取之。穴外銭任敵請撃之、中則爲勝、其餘如上法、云々」とある。また大槻文彦博士の『言海』にも「下民ノ小皃ノ賭戯、地ニ線ヲシルシ、数銭ヲ抛チ別ニ一銭ヲ以テ、敵ノ指ス銭ニ打チツケ、中ルヲ勝トス、アナイチ、攤銭」と記している。以上の考証から言えば「アナイチ」と「ゼニウチ」とは同一のものかとも考えられるが、果たして同一のものとすれば、この遊戯はすでに平和ん時代に行われ、徳川時代に入ってから大いに流行したものらしい。
第百三代東山天皇の元禄十二年(二三五九)に『役者口三味線』を著して頓にその名を知られた江島其磧の『賢女心粧』に「をのこのすなる石取、穴一などの組合はざる悪遊び云々」とあり、『長崎歳時記』正月二日の條に「此日は市中家並に暁起し、店先に簾を垂れ家内賑わう。男女小皃の戯は破魔弓、雙六、猫具、毛毬、はご板、紙打なり。下賤の輩はスホ引き、ヨセ、ケシ、カンキリ、カラハ筋打などして楽しむものあれど、右は博奕に似たるとて親々堅くこれを禁ずるものなり」と図解を載せ「スホ引は寶引の事にして以下は皆銭を投げる遊戯なり。カンキリは普通の穴一にして、カハラ一名穴ポンと云えば穴のまわりに輪を書きたり。筋打は江戸にてキズと言うものなり。ヨセは小さき木を地に立て線を投げるに其木のもとによるをよしとす。ケシは地にうず巻を書き、投げる銭其の正中によるほど勝とす。うつ銭をバツソウと名づく云々。けれども第百十九代光格天皇の文化三年(二四六六)、幕府は同技を博奕に類するものとして、ろくど、辻寶引、道中双六その他一切の賭勝負と共に禁止、した。当時女皃が弄んだ手鞠の歌にも「三ツとや、皆さん子供衆は楽遊びゝ、穴一、こまどり、羽子をつく」、というのがあるくらいに流行を極めたものであった。遊戯法は『和漢三才図会』に詳しいからここに省くが、穴一の語源は穴の前に一線があるところから、こう呼んだものと思われる。  

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2017年11月13日

あておに(当て鬼)

「メクラオニ」「サガシオニ」などといって、「目隠し鬼」の別名であるが、古くは「メナシドチ」「メンナイチドリ」といっていた。その遊び方は、集ったものの中から、一人が鬼となって手拭い或いは布で目を覆い、他のものは子といって皆逃げ手となる。捕らえよう捕らえられまいとして右往左往とする間に、巧みに子を捕えた鬼は、頭、顔、衣類その他を撫で回して、その誰であるかを言い当てるのである。捕えられた者が知られまいとして、口をきかないことはいうまでもない。こうして言い当てれば、鬼はその子と代わるが、もし不首尾に終わった場合には、幾度でも鬼を続ける。また別の方法としては、逃げ手が「鬼さんこっち手の鳴る方へ。」と手なぞを叩いて、自分の存在・位置を教え、鬼が近くまで来ればまた逃げて同様のことを繰り返す。第百二十一代孝明天皇の嘉永六年(二五一三)、喜多川守貞著、『守貞漫稿』は「目なしどち、軒の雀と云るは、小皃を裏み打ち群れ遊ぶ様目の無き雀の如しと云うこと。めんないちどりも目のなき千鳥也。千鳥もスズメもうち群れて遊ぶ者也。」といっている。
相当古い時代から行われていたもので、『漢書』の致處雑爼に、「玄宗興玉真恒于皎月之下以錦怕裏目在方丈間互相捉戯。玉真捉上、毎易。而玉真輕捻上毎失之、謂之捉迷蔵。」とあり、「目隠し」は唐の玄宗皇帝と寵姫玉真とによって、その端を発したように傅へられているが、こういう遊びは、唐から渡来したものでもなく、わが国にも誰するとなく行われたしたものと考えられる。第八十七代四條天皇の御代に、權太夫信實が書いた「今物語」にも、「ひじりの屋をば、めかくしにふけといわせて、くるまをはやく、やらせけるに。」とあり、「目隠し」という言葉がすでに用いられている。第九十九代後龜山天皇の御代に刊行されたと傅へられるお伽草紙の『福富雙子』に、「道すがら目なしどち軒の雀遊ぶ童の手さし指さして笑う。」とあり、また同時代の『酒食論』という書物にも、「よろずの祀ひ遊びにも酒の無きは興もなし。呪師品玉のくるい迄、酒を飲まねばしらけたり。相撲、目隠し、力持ちひだるくなりては甲斐もなし。」と記されている。この時代は子どもばかりでなく、酒宴の余興などにも行われたものと見えるが、第百三代後土御門天皇の文明六年(二一三四)八十一歳の高齢で大徳寺の住職となった一休禪師の『水鏡』という書にも、「目なしどち目なしどち聲に付てましませ。」とあり、すでにこの当時遊びごととされていた。しかもこの遊びが第百二十代仁光天皇の天保二年(二四九一)の夏、始めて市村座で興行された『忠臣蔵』七段目、一力茶屋の場に現在演じられているとおり、大星由良之助が目隠し姿で酔歩蹣跚、「由良鬼はまたいな、めんないちどり、手の鳴る方へ。」と大勢の者に囃されながら出てくるところなどを見れば当時も盛んに行われていたことが裏書される。

※足相撲は省略
  

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2017年11月12日

あしごき(足ごき)

東京地方で言う「チンゝモガゝ」であって、二人以上が各々片足を後方に上げて片手でその足首を握るか、或いは足を握らず、しのまま他の片足で跳躍しながら、或いは進み、或いは退き、或いは停止するなど、巧みに身体を支えて競争・押し合い・擬戦などを行う遊戯である。京阪地方では「チンゝ」、九州のある地方では「スケコンスケコン」とよんでいるが、この遊戯を二人でやるのを「鷺相撲」といっているところもある。平安朝以前から行われていたものであって、最も盛んに行われたのは、元禄時代だと言われている。第百十二代靈元天皇の寛文十二年(二三三二)に刊行された『後撰夷曲集』に、「いせ参りあこきが浦にひく足もたびかさなればちがゝぞする―廣通。」とあり、第百十七代後櫻町天皇の明和六年(二四二九)十一月市村座で初演されたという長唄『隈取安宅松』に、「ちっちゃ子持や桂の葉、ちんがちがゝちんがらこ、走りゝ走り着いて先へ行くのは酒屋のおてこ。」とある。古くは「チンゝモガゝ」のことを、「ちがゝ、ちんがらこ、ちんがらく」といったことは、落合直文氏の『ことばのいづみ』にもみえている。  

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2017年11月11日

あしおし(足押)

一定の間隔を置いて互いにあぐらをかき、右足を投げだして自由の利くようにする。そして両手を後方に突き立てて上半身を支え、定められた合図によって、右の足首で押し合い、或いは倒し合いをする力技であるが、さほど古くから行われていたものではないらしい。第九十六代後醍醐天皇の御代の和漢学者、僧虎関師錬の書と言われる『異制庭訓往来』に「膝挟」、室町時代の著『義経記』に「すねおし」、更に元禄時代の刊行、『狂言集』や狂歌、川柳などにも同様「脛押」の文字は見られるが、「足押」という字は発見できない。恐らく徳川時代の末期になってから、行われだしたものであろう。

※揚羽子は省略  

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2017年11月10日

あげだま(揚毬)

「キンキウ(金毬)」ともいい、中古武士の間に行われた遊戯で、紅白二組に分かれ、一方の組が予定数の毬を毬門に投げ入れると、その組に対して審判者から更に金銀若しくは他の色の毬を與える。これがいわゆる「揚毬」であって、これを毬門に投げ入れれば、その組の勝ちとなる。相手がこれをいれさせまいとして極力妨害すると同時に、味方の毬を入れ尽くそうと全力を傾倒することは言うまでもない。元来この競技は、騎馬で行うのが正式であるが、いつの間にか徒歩で行う場合が多くなってしまった。要するに、この競技も「打毬」から考案されたものと見るのが妥当のように思われる、記録としては見るべきものがない。「だきう」の項参照。  

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2017年11月09日

あがりこさがりこ

起源や年代は明らかでないが、かなり古い時代から子ども達の間に行われていた遊戯であって、「ギッカンコ」「ギッチャンコ」。地方によっては「ギッコバタン」「天秤遊び」或いは「お米やぺったんこ」などといっている。
関東地方では「米搗」とよんでいるが、その方法はまず太い丸太の上に厚い板を載せてその両端に跨るか、上半身を板に託して交互に上下する―すなわち一方が上がれば一方が下がる、現在の「シーソー」と同一の遊びと言って良い。
農家や商家の子ども達が、荷車を利用して遊んでいるのをよく見受ける。その形式こそ変わっていても、子ども達にとって、太古時代からの遊戯であったと考えられる。
  

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2005年04月09日

日本の遊戯

普通に読むと忘れそうなので、できれば毎日書いていこうと思う。
権利的にいいかどうかは知らんけど、原文そのままを載せることはない、というか変換できない文字も多いので載せられない。  

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