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2017年11月16日

おうぎあわせ(扇合)

いつの時代から始められたものか明らかでないが、第六十四代円融天皇の御代には行わせられたことが、当時書き残された『円融院扇合』に、
「宮の御方にうえおわしまして、らご(亂碁)とらせ給いて、かたせ給えるかちわさ、六月十六日にうえせさせ給う。梅つぼにわたらせ給えるに、殿上人中少将をはじめてとりつづきまいる。南は御すだれより外にあげて袖ぐちどもとりいる、したんのをきくちしたるらてんの御宮に、緋扇十枚入れさせ給いて、からのうすもののすはうのすそごのさいでにつつみて、同じ紫のくみして、白がねを桔梗をみなえしの枝に造りて付けさせ給えり。白がねこがねのこものしたに、からの羅をあい色に染めて、ひとえにてはれるもあしでにて―君が代を松ふく風にたぐえとぞかへすちとせのためしなりける―しろがねをば、まづ萩のかたちに色どりて、からの羅を浅みどりにしてはれり、それにあしでにてぬえるなんめりき―澤に住むたづの羽かぜに涼しきは君が千とせをあうぎなるべし―」
と記されている。その方法は数人の者が左右の二組に分かれ、各自美しい小筥の中に、思いゝに数寄を凝らした扇を入れて出し合い、風流の趣向の優れたものの方を勝ちとする。これは勿論殿上人の慰みであって、地下ではあまり行われなかったものらしい。その後、第七十三代堀河天皇の寛治三年(一七四九)八月二十三日、後冷泉天皇の御后が宇治で行わせられたことが記録にあり、更に第七十五代崇徳天皇の保延元年(一七九五)に催されたことが『長秋記』に、
「保延元年五月十七日己丑、女院近習女房殿上人、左右各十余人、調扇紙可合之由申来云々。今日有其事、左方坊門殿小因幡、美濃大宮少将、少輔男公能朝臣、公道、光忠、光隆、爲盛、蔵人清則、右大炊殿土佐、侍従、小少将、紀男。男經宗朝臣、爲通、師中、爲成、範高、清重。臨期上皇御幸。右方女房著種々装束、出自几丁帳、寝殿於南廂有此事。垂母屋御簾。右方二階上置紙筥十一、各所進也。敷龍鬢其上、二階敷唐錦茵、以扇爲様。左方無其設、只進紙不出合筥、或以銀作是、或巻付、或只裏紙云々」
と記されてある。けれども武家が政権を握るようになってから、この遊びも漸く影が薄くなって来て、僅かに年代・筆著共に未詳の『源平盛衰記』十二、第八十代高倉天皇の治承三年(一八三九)十一月十五日、関白基房流罪の條に、「野路宿にもかかりぬれば、枯野の草に置ける露、日影に解けて旅衣、乾く間もなく絞りつつ、篠原の東西を見渡せば、遥かに長き堤あり、北には郷人棲をしめ、南には池水遠く清めり、遥かに向こうの岸の汀には翠深き十八公、白波の色に移りつつ、南山の影を浸さねども、青うして滉瀁たり。洲崎にさわぐ鴛鴦鷗の、葦手を書ける心地して、鏡宿にも着きぬれば、むかし扇の繪合に、老いやしぬらん。と詠じけんも此の山の事なり」とあり、同じく鳥羽法皇御寵居の條に、「鳥羽殿には月日の重なるに付けても御歎は浅からず、折々の御遊、所々の御幸、御賀の儀式目出度かりし、今様朗詠の興ありし事、扇合、繪合までも忘るる御隙なく、只今の様にぞ思し召し出されける。」とある。いずれもすでに思い出として記されてはいるが、当時はまだ時にふれ折にあたって遊びごととされていたものと見える。第八十一代安徳天皇の壽永三年(一八四四)七月、平家が没落してから後、扇合の遊びは全くその後を断ってしまったらしく、作者・年代共不明であるが、例の『平家物語』十一、小朝拜の條に「平家は讃岐の國屋島の磯に送り迎えて、年の始なれ共、元日、元三の儀式事よろしからず(中略)花のあした月の夜、詩歌、管絃、毬、小弓、扇合、草づくし、蟲づくし、さまざま興ありし事共思い出、かたりつづけて、永き日をくらしかね給うぞあはれなり。」と、いかにも遠き古の追憶のように記されている。  

Posted by keel at 23:59Comments(0)日本の遊戯