2017年12月31日
今年ゲームいっぱいやったので
個人的に賞を送ろうと思う。
※最近日記書いてない理由は後日
個人の賞なので、文句は言わんでくれ。
全体での優秀賞
1・パネルでポン
2・ソロモンの鍵(途中セーブあり限定)
3・FF3(途中セーブあり限定)
懐古抜きでの優秀賞
1・パネルでポン
2・ドラゴンズクラウン
3・レンタル武器屋deオマッセ
今年発売内での優秀賞
1・ゼルダの伝説ブレスオブザ・ワイルド
2・Fight of Gods
3・ヒューマンリソースマシーン(存在自体は昔からあったらしいので、次点でミリオンライブシアターデイズ)
時間泥棒賞
1・ドリームナイン(あいつクビになったのでやきうの話解禁)
2・マキシブーストON
3・ミリオンライブシアターデイズ 続きを読む
※最近日記書いてない理由は後日
個人の賞なので、文句は言わんでくれ。
全体での優秀賞
1・パネルでポン
2・ソロモンの鍵(途中セーブあり限定)
3・FF3(途中セーブあり限定)
懐古抜きでの優秀賞
1・パネルでポン
2・ドラゴンズクラウン
3・レンタル武器屋deオマッセ
今年発売内での優秀賞
1・ゼルダの伝説ブレスオブザ・ワイルド
2・Fight of Gods
3・ヒューマンリソースマシーン(存在自体は昔からあったらしいので、次点でミリオンライブシアターデイズ)
時間泥棒賞
1・ドリームナイン(あいつクビになったのでやきうの話解禁)
2・マキシブーストON
3・ミリオンライブシアターデイズ 続きを読む
2017年12月06日
いぬおふもの(犬追物)
(長いので分割して記載)
その濫觴は明確ではないが、遊びというよりはむしろ武藝のうちに数えられる騎射の一種である。犬を追うて射る儀式的のものであって、その昔は猪、鹿などを追いながら射ったから追物射と呼ばれていた。第百八代後水尾天皇の元和年間に多々良一吹著の『後太平記』三十四、犬追物御興行の條に
「前大樹慈照院殿、寛正六年(第百二代後花園天皇の御代―二一二五)八月興行御座しましてより以来、犬追物の御沙汰なかりしかば、武家弓馬の政怠りぬ。今戦世の代に当っては、且太平の政なるべしとて、今年新に是を行われける。抑此犬追物と申すは、昔時神功皇后三韓征伐の御時、彼の三国戦に討負け、終に日本に降伏す、去れ共連々反複の謀怠らざれば、吾朝にも亦武備を設けて、弓馬の技馭断ゆる間もなし。凡そ彼の三国は日本より戌の方に当りぬれば、彼の国の敵をば皆犬と呼びなせり。是れ由緒なきに非らず。亦皇后新羅に討入り給いて、弓筈を以て新羅国の大王は日本の犬なりと書き付け給えば、其字破れ未だ盡きず。爰を以て武家弓馬の政を犬追物といえり。其後久安元年(一八〇五)に当って、近衛院(第七十六代)の御悩急也。時に陰陽博士安部泰成占卜して、是は玉藻の所爲なり、(中略)此の玉藻の前の御事は容色百媚の粧ひ、唯人間にあらず、正しく涅は下野国那須野ノ原の狐にて候、今日君の御猶豫を晴し申すべしとて、太山府君星供(たいざんぷくんしやうじやう)を行い、彼の玉藻ノ御方に天神地祇の幣帛を持たせけるに、忽ち狐と成って飛び去り、御悩軈て平復す。此時三浦介、上總介に勅を下され、那須野ノ原の狐を狩り給う。其儀式弓馬の秘術を盡したれば、是を以て犬追物の式法決定御座します」
とあるが、勿論かかる牽強付会の説をすぐさま信じてしまう譯には行かない。近衛天皇に先立つ事約三十年、第七十三代堀河天皇の御代、後三條天皇の御寵を蒙って大蔵卿の職にあった大江匡房の手記に「堀河院御時、犬狩被閉諸陣、而先例当御物忌。犬狩尤有便(略)」と堂々と記されているし、また、第八十四代の順徳天皇が御筆になった『禁秘御抄』にも「蔵人承仰下知、所衆瀧口帯弓箭、儲所衆衆入縁下狩出、而此後甚見苦、仍好遅参、定蒙召籠、仍衛士幵取、夫人入縁下」と見えている。
要するにこの犬追物は寛正六年以前から既に存在していたものであって、それが鎌倉時代になって武技尊重の表れとして本格的のものに改められたというに過ぎない。その最初の記録は作者・年代ともに不詳だが第八十一代の安徳天皇から第九十代の亀山天皇の御代に亘って記述された『吾妻鏡』の貞應元年(第八十六代後堀河天皇―一八八二)二月六日の條に、幕府の南庭に於て射手四人、犬二十疋で行われたと録されてあり、亦筆者・年代共不詳の『北条九代記』六にも「世の中已に靜謐に属し、新帝(第八十六代後堀河天皇)御位に皍かせ給い、物騒しき年も暮れて、春立つ今日というよりして、京都鎌倉同じく賑い、草木の色も新に見え、鳥の聲まで嬉しげなり。正月七日若君御弓始あり。同二月六日には南庭に於て犬追物有りて、若君殊に御入輿まします。同四月十三日、承久四年を改めて貞觀元年とぞ號しける。」と同様の事が記されてある。続いて同天皇の寛喜二年(一八九〇)正月二十三日にも由比ノ浦で行われた事が同書に載せられているが、北條時代も末期になるにつれて、常に小糶合が絶えなかった結果か、この遊事記録も次第に影を薄め、僅かに第百二代後花園天皇の御代に、伊勢太廟の祠人の女、荒木田麗女がものした『池の藻屑』に第九十八代長慶天皇の永和四年(二〇三八)に行われたことが次のように書かれているのをみるだけである「永和四年と申しき、三月武家には犬追物という事なむ催し侍る。是は往昔鎌倉なる頼朝の大将など、あまたたびさせつる事にて、武士の翫なる事なれど、ちかき世には絶えはてたりしを、こたび興しけるとなむいみじうけうある事とぞと人申し侍る。」これによっても長年月の間中絶していた事がはっきりと立証されている。越えて寛正六年の興行になるのだが、これとても相当の隔りがあるし、次に記録されている第百六代正親町天皇永禄三年(二二二〇)の催しも九十五年の間が置かれてある。前掲の『後太平記』の同じ條に
その濫觴は明確ではないが、遊びというよりはむしろ武藝のうちに数えられる騎射の一種である。犬を追うて射る儀式的のものであって、その昔は猪、鹿などを追いながら射ったから追物射と呼ばれていた。第百八代後水尾天皇の元和年間に多々良一吹著の『後太平記』三十四、犬追物御興行の條に
「前大樹慈照院殿、寛正六年(第百二代後花園天皇の御代―二一二五)八月興行御座しましてより以来、犬追物の御沙汰なかりしかば、武家弓馬の政怠りぬ。今戦世の代に当っては、且太平の政なるべしとて、今年新に是を行われける。抑此犬追物と申すは、昔時神功皇后三韓征伐の御時、彼の三国戦に討負け、終に日本に降伏す、去れ共連々反複の謀怠らざれば、吾朝にも亦武備を設けて、弓馬の技馭断ゆる間もなし。凡そ彼の三国は日本より戌の方に当りぬれば、彼の国の敵をば皆犬と呼びなせり。是れ由緒なきに非らず。亦皇后新羅に討入り給いて、弓筈を以て新羅国の大王は日本の犬なりと書き付け給えば、其字破れ未だ盡きず。爰を以て武家弓馬の政を犬追物といえり。其後久安元年(一八〇五)に当って、近衛院(第七十六代)の御悩急也。時に陰陽博士安部泰成占卜して、是は玉藻の所爲なり、(中略)此の玉藻の前の御事は容色百媚の粧ひ、唯人間にあらず、正しく涅は下野国那須野ノ原の狐にて候、今日君の御猶豫を晴し申すべしとて、太山府君星供(たいざんぷくんしやうじやう)を行い、彼の玉藻ノ御方に天神地祇の幣帛を持たせけるに、忽ち狐と成って飛び去り、御悩軈て平復す。此時三浦介、上總介に勅を下され、那須野ノ原の狐を狩り給う。其儀式弓馬の秘術を盡したれば、是を以て犬追物の式法決定御座します」
とあるが、勿論かかる牽強付会の説をすぐさま信じてしまう譯には行かない。近衛天皇に先立つ事約三十年、第七十三代堀河天皇の御代、後三條天皇の御寵を蒙って大蔵卿の職にあった大江匡房の手記に「堀河院御時、犬狩被閉諸陣、而先例当御物忌。犬狩尤有便(略)」と堂々と記されているし、また、第八十四代の順徳天皇が御筆になった『禁秘御抄』にも「蔵人承仰下知、所衆瀧口帯弓箭、儲所衆衆入縁下狩出、而此後甚見苦、仍好遅参、定蒙召籠、仍衛士幵取、夫人入縁下」と見えている。
要するにこの犬追物は寛正六年以前から既に存在していたものであって、それが鎌倉時代になって武技尊重の表れとして本格的のものに改められたというに過ぎない。その最初の記録は作者・年代ともに不詳だが第八十一代の安徳天皇から第九十代の亀山天皇の御代に亘って記述された『吾妻鏡』の貞應元年(第八十六代後堀河天皇―一八八二)二月六日の條に、幕府の南庭に於て射手四人、犬二十疋で行われたと録されてあり、亦筆者・年代共不詳の『北条九代記』六にも「世の中已に靜謐に属し、新帝(第八十六代後堀河天皇)御位に皍かせ給い、物騒しき年も暮れて、春立つ今日というよりして、京都鎌倉同じく賑い、草木の色も新に見え、鳥の聲まで嬉しげなり。正月七日若君御弓始あり。同二月六日には南庭に於て犬追物有りて、若君殊に御入輿まします。同四月十三日、承久四年を改めて貞觀元年とぞ號しける。」と同様の事が記されてある。続いて同天皇の寛喜二年(一八九〇)正月二十三日にも由比ノ浦で行われた事が同書に載せられているが、北條時代も末期になるにつれて、常に小糶合が絶えなかった結果か、この遊事記録も次第に影を薄め、僅かに第百二代後花園天皇の御代に、伊勢太廟の祠人の女、荒木田麗女がものした『池の藻屑』に第九十八代長慶天皇の永和四年(二〇三八)に行われたことが次のように書かれているのをみるだけである「永和四年と申しき、三月武家には犬追物という事なむ催し侍る。是は往昔鎌倉なる頼朝の大将など、あまたたびさせつる事にて、武士の翫なる事なれど、ちかき世には絶えはてたりしを、こたび興しけるとなむいみじうけうある事とぞと人申し侍る。」これによっても長年月の間中絶していた事がはっきりと立証されている。越えて寛正六年の興行になるのだが、これとても相当の隔りがあるし、次に記録されている第百六代正親町天皇永禄三年(二二二〇)の催しも九十五年の間が置かれてある。前掲の『後太平記』の同じ條に
2017年12月04日
いてふうち(銀杏打ち)
互いに同じ数の銀杏を出し合って地上に撒き、それをいろいろの型にならべる。そしてアレ、コレと指示しながら、自分の持っている銀杏を打ちつける。巧く打ち当ればそれを自分の所得とする。さもない時は番を次の者に譲る、という子供達の遊戯で、古くから行われていた形跡がある。
※いたちごっこ(鼬事)は省略
※いたちごっこ(鼬事)は省略
2017年12月04日
ここ数日の話
・札幌いってきた
・忖度弁当買った
・ロッテ選手名使った漫画買い始めた
・八海山のあまざけ使って料理してみた
・まるごとにっぽんの話各種
・大森で飯食った
・職場の近くのこと
・大尉5から一回4に落ちた 続きを読む
・忖度弁当買った
・ロッテ選手名使った漫画買い始めた
・八海山のあまざけ使って料理してみた
・まるごとにっぽんの話各種
・大森で飯食った
・職場の近くのこと
・大尉5から一回4に落ちた 続きを読む
2017年12月03日
いたおとし(板落し)
デングリカエリの事を地方によって板落しといっているが、厳格な意味でいえば宙返りの方が当っている。第百二十代仁孝天皇の文化十三年(二四九〇)刊行の喜多村信節の『嬉遊笑覧』は曰ふ。「「東京夢華録駕登實棲諸軍呈百伎條に両々出陣格闘、作奮刀撃刺之態、百端訖一人棄刀在、就地擲身皆着有聲謂之板落云々」。この板落といえるは宙返りなり、筋斗は勢すくなく板落はいたく勢あるさまにや、さてこの戦闘の学び今歌舞伎のタテというものに似たり」とある。「でんぐりかえり」の項を見よ。
2017年12月02日
いしひろい(石拾い)
小石の多い道路や河原などで「イシメツカリコ」といいながら、自分の好きな石を拾って、その数の多いのと、形の優れたもの、光沢のあるものなどを拾い集めて優劣を競う遊び。平安朝時代大宮人の間に行われた貝合せという遊びに由来するものではないだろうか。「かいあわせ」
2017年12月01日
いしはじき(石彈)
小石を彈いて遊ぶ俗にいう「オハジキ」であって、その昔は小石のみで遊んだものだったが、近世になってキサゴ(細螺)―訛ってキシヤゴといっている―を用いて遊ぶようになった。現在ではオハジキといえばキサゴハジキをすぐ思わせる。平安朝時代には彈碁(ダンキ)といって中高になった特別の碁盤の上で、碁石を彈き合う遊びがあったが、これは上流社會の人々にのみ限られていた。第六十一台朱雀天皇の承平年中に著わされた源順の『和名類聚抄』に「世説云彈碁始自魏宮文帝於此技且好矣。」とあり、第百十四代中御門天皇の正徳二年(二三七二)に寺島良安が著した『和漢三才圖會』には「今云彈碁乃擲石之類而有少異。兒女常弄之。用碁子十有餘、撒之要不攅重、而以手指彈合、取撃当者、復次如之無遺爲勝。如誤撃隣石者爲負。」とある。これから見ても、この時代には彈碁というものがすでに廃れてしまって、極めて一般的に、しかも簡易化されてきたことを物語っている。また第六十三代冷泉天皇の安和年間から第六十六代一條天皇の長保年間までに書かれたという『宇都保物語』の祭の使の條に「中のおとどに庚申し給いて、男女、方わきて石はじきし給う」という一節がある。この例は彈碁のようでもあるが、男女に組を分けて行ったという點から考えて、普通の石彈きであったように想像される。
第九十一条後宇多天皇の御代、御寵を一身にあつめた卜部兼好、後の兼好法師の著『徒然草』に「碁盤のすみに石をたててはじくに、むかひなる石を守りて、彈はあたらず、我手もとをよく見て、ここなるひしりめをすぐにはじけば、たてる石かならずあたる。萬のこと外にむきて求むべからず」とあるが、第百十二代靈元天皇の貞享元年(二三四四)に井原西鶴が著した『二代男』には「藻屑の下のさされ貝の浦めづらかに、手づから玉拾う業して、ままことのむかしを居間にはじきというなどして遊びぬ」とあるから、この時代にはすでに、貝を用いていたことが立証される。『長崎歳時記』に「猫貝を小兒弄ぶことを云て、其法のせはじきと云は貝を握り、手の甲にうけ又手心にうけ、握り取、疊の上にちりたる餘り貝は一々はじき取て勝負を決す。十五握と云は各々貝十二十を出し合せ順々目を塞ぎ面をそむけて、数十五をつかみ取るを勝とす。とんのみと云は各自目印ある貝一つずつ出し合せそれを掌にてふり出し、餘り貝は附せ、一貝仰ぐものを勝とす。」また、『怡顏齋介品』という書物には「きさご肥前にて猫貝と云」と猫貝の、のせはじきがキサゴ遊びである事を示している。
第百二十代仁孝天皇の文政十三年(二四九〇)に喜多村信節の記した『嬉遊笑覧』に「きさごはじきにツマと云はツマヅクの略、ヤツというはやつあたりなり。きさごをかぞふるに、ちうしちうじたこのくはへが十てうと云う。ちうじは重ニなり。それを重ぬれば八ツとなる。章魚の足の数なり、是に又ニツて十になるをいう」とあるが、子供達はそれを訛ってか「ちうちうたこかいな」と数えている。現在行われている「オハジキ」は一握り或は一定数のキサゴを出し合って、これを撒き、重なり合った分はオネボといってそれだけを撒きなおす。こうして拇指と食指とで彈いて当ったものを自分の所得とする。もし当らないか、一彈きに二箇以上に当った場合には次の者に番を譲る。全部支障なく当った時にはオトメといって、何囘でも続ける事ができる。「だんき」
第九十一条後宇多天皇の御代、御寵を一身にあつめた卜部兼好、後の兼好法師の著『徒然草』に「碁盤のすみに石をたててはじくに、むかひなる石を守りて、彈はあたらず、我手もとをよく見て、ここなるひしりめをすぐにはじけば、たてる石かならずあたる。萬のこと外にむきて求むべからず」とあるが、第百十二代靈元天皇の貞享元年(二三四四)に井原西鶴が著した『二代男』には「藻屑の下のさされ貝の浦めづらかに、手づから玉拾う業して、ままことのむかしを居間にはじきというなどして遊びぬ」とあるから、この時代にはすでに、貝を用いていたことが立証される。『長崎歳時記』に「猫貝を小兒弄ぶことを云て、其法のせはじきと云は貝を握り、手の甲にうけ又手心にうけ、握り取、疊の上にちりたる餘り貝は一々はじき取て勝負を決す。十五握と云は各々貝十二十を出し合せ順々目を塞ぎ面をそむけて、数十五をつかみ取るを勝とす。とんのみと云は各自目印ある貝一つずつ出し合せそれを掌にてふり出し、餘り貝は附せ、一貝仰ぐものを勝とす。」また、『怡顏齋介品』という書物には「きさご肥前にて猫貝と云」と猫貝の、のせはじきがキサゴ遊びである事を示している。
第百二十代仁孝天皇の文政十三年(二四九〇)に喜多村信節の記した『嬉遊笑覧』に「きさごはじきにツマと云はツマヅクの略、ヤツというはやつあたりなり。きさごをかぞふるに、ちうしちうじたこのくはへが十てうと云う。ちうじは重ニなり。それを重ぬれば八ツとなる。章魚の足の数なり、是に又ニツて十になるをいう」とあるが、子供達はそれを訛ってか「ちうちうたこかいな」と数えている。現在行われている「オハジキ」は一握り或は一定数のキサゴを出し合って、これを撒き、重なり合った分はオネボといってそれだけを撒きなおす。こうして拇指と食指とで彈いて当ったものを自分の所得とする。もし当らないか、一彈きに二箇以上に当った場合には次の者に番を譲る。全部支障なく当った時にはオトメといって、何囘でも続ける事ができる。「だんき」