2012年01月02日
パクリが否定的に取られるわけ
そもそも、何を持ってパクリといえばいいのだろう?
まあ、主観的に見ると、これとこれ同じじゃん。前のが先に出てたからあとのがパクリだ。
という感じなシーンが思い浮かぶ。
それはそれでいい。しかし、なんでそこで妙な不快感が生まれるのだろうか。
まあ、主観的に見ると、これとこれ同じじゃん。前のが先に出てたからあとのがパクリだ。
という感じなシーンが思い浮かぶ。
それはそれでいい。しかし、なんでそこで妙な不快感が生まれるのだろうか。
案外、単純な話なのかも知れない。
Aという作品がある。絵でも文章でも映像でもアプリケーションでもいい。
Aと似た、Bという作品がある。Bは、Aを元に作ったと思われるくらいそっくりな作品だ。
ところが、よくよく調べるとBにはAにあったオブジェクトが1つ足りない。オブジェクトの1つの色が違う。
なぜそれが起こったか?
仮に、Bの製作者が、Bを作る際にAという作品を参照したが、見落としたか、自らのオリジナリティを付け加えたかとしよう。
仮定で話をしよう。
例えば、Bの製作者が見落としをしてしまっていた場合。
その場合、Bの製作者の目標が、Aの完全コピーになっていると推測できる。
そのため、後発Bの作品は、先発Aの作品から劣化した出来のものになっていると言えるわけだ。
後出しの上に品質が劣化していて不快感が生まれないわけ無いだろう。
例えば、Bの製作者がAに自らのオリジナリティを付け加えた場合。
おそらく、Bの製作者はAをこうすれば更に完成度が高まる、と考えたと推測できる。
その変更点について、Aの制作意図を汲んで新たな技術を組み込んだ上で行った場合、意図に気づかず行った場合とで印象は違ってくる。
意図を汲んだ場合。
変更があった箇所以上に、もっと新たな技術を上乗せできる場所があるかもしれない。
そういう場合も意図を汲んでいるなら、それらの箇所もオリジナリティを付け加えているはずであり、そうでない場合は見落としが発生している。
より良くするのであれば、他のより良くする箇所も仕事がしてあるはずだ、という話だ。
それがなされていないのであれば、見落としの話と同じ結末を生むだろう。
意図を気づかない場合も同じ事になる。
ただし、結果的に良くなることもあるが、そういったまぐれは何箇所も起こることではないし、もし起こったらそれはまぐれなどというシロモノではない。
以上、Aを最高点として新たなBを製作した場合は、概ね「パクリ」という不名誉な称号を得てしまうメカニズムの解説だ。
そして、この状態であるBがなぜ不快感を示されるかも、答えは難しくない。
模写というのは、技術を磨く場合に効率が良いとされる。
俺も、模写することを否定しないし、練習としてどんどんやればいいんじゃないか、と思っている。
しかし、それは練習であり、人は練習とエンターテイメントを比較した場合に前者を見たいと思うことはほぼない。
後者のエンターテイメントの流れとして、練習をもエンターテイメントとして見れる一部の人間を除けば。
要するに、練習で金取ったり誇ったりすんな。
技術磨くためにはパクりまくれ。でも、それで人様から金とろうとか、褒められようとかするな。
他人が見たいのはお前の努力じゃなくて、お前の努力の成果なんだ。
という認識から生まれる不快感なんじゃないかとふと思った。
実際どうだか知らない。
オマージュとかリスペクトは、Aという作品を好んで作られた二次創作。
そのAという作品を好んだ人間が、それを同じように好んだ製作者の作成した作品を好むことはありうる。
なぜなら、それは言葉ではなく作品による意志の伝達が行われているからだ。
だから、Aを好む人間が、Aをオマージュ、リスペクトした作品を好むことは多く、Aを好む人間がそれらを非難することはあまりない。
しかし、それで容認されていると言えばそうではなく、Aを特に好まない人や、好意を作品で表明されることそのものに不快を示す人も少なくはないだろう。
なので、オマージュ、リスペクトなどは、容認する人がいくらかいるだけで、立ち位置的にはパクリと同じだ。
ただし、パクリと違うのは目標点がAという作品そのものではなく、別の部分にありうる可能性がある。
そのため、その別の部分に優れていれば、それはそれで評価される。
どっちもどっちじゃね、と思うんだが、実はなんらかの意図がない限り作品作りっていうのはなかなかできないもの。
その意図、いや意欲と言った方が適切か。
意欲が生まれるのは、心底から生まれいづるどうしようもない衝動か、生活、お金、名誉のため。
衝動がAという作品がきっかけであれば、オマージュやリスペクトになるのは自然だ。
また、お金や名誉のためなら稼げそうなAという作品をそのままコピーして練習と、作品という資産を得る方法も視野に入る。
どいつもこいつも、そういった制作意欲というヤツから生まれるもので、否定したとしてもそれらが生産されることは止めることができない。
そして、それらはどうしたってAという作品の影響下にあり、Aなしで評価されるものではなくなってしまう。
それはそれで、存在自体を悪とするわけにも行かず、だいたい全て禁止したら練習するモチーフがなくなって技術がだだ下がりになってしまう。
たくさんの競争相手があって、細微な差異で差をつけるために技術の研磨が行われるのだから。
しかし、生まれいづる作品が全て平等とは言いがたいのも理由がある。
なぜなら、それら二次創作的作品により、真に衝動から生まれた傑作(じゃないものも)も数で押し流す可能性が極めて高いからだ。
それを心配する人こそ、二次創作を忌み嫌う人たちなのではないか。
ということを、むか~しの俺を分析して考えてみた。
いや~、今までパクリというかオマージュやリスペクトはしまくってたけど、自分がパクリすんの嫌いだったんだよね。
今じゃ、作りてえ! と思う衝動の核が別作品だったりしてきたけど、あの頃の自分はなにに創作意欲を燃やしてたのか何となく思い出してきた気がした。
また、仕事でパクリをして、いろんな改善点に気づいていじりたくなったりしたとか。
でもそれは、パクリのまま世に出す気はさらさらないけど。
どうすりゃいいかって?
別に、何かのパクリでもオマージュでもリスペクトでもないもん作りゃいいじゃん。
お前がそう思わずに作りゃ、自然とお前だけの作品になるさ。
ならんのなら才能か技術が足りないんでしょ…俺が言うのもなんだけども。
ということを3週間くらい前に結論した。確か。
たぶんこれで終わり。
Aという作品がある。絵でも文章でも映像でもアプリケーションでもいい。
Aと似た、Bという作品がある。Bは、Aを元に作ったと思われるくらいそっくりな作品だ。
ところが、よくよく調べるとBにはAにあったオブジェクトが1つ足りない。オブジェクトの1つの色が違う。
なぜそれが起こったか?
仮に、Bの製作者が、Bを作る際にAという作品を参照したが、見落としたか、自らのオリジナリティを付け加えたかとしよう。
仮定で話をしよう。
例えば、Bの製作者が見落としをしてしまっていた場合。
その場合、Bの製作者の目標が、Aの完全コピーになっていると推測できる。
そのため、後発Bの作品は、先発Aの作品から劣化した出来のものになっていると言えるわけだ。
後出しの上に品質が劣化していて不快感が生まれないわけ無いだろう。
例えば、Bの製作者がAに自らのオリジナリティを付け加えた場合。
おそらく、Bの製作者はAをこうすれば更に完成度が高まる、と考えたと推測できる。
その変更点について、Aの制作意図を汲んで新たな技術を組み込んだ上で行った場合、意図に気づかず行った場合とで印象は違ってくる。
意図を汲んだ場合。
変更があった箇所以上に、もっと新たな技術を上乗せできる場所があるかもしれない。
そういう場合も意図を汲んでいるなら、それらの箇所もオリジナリティを付け加えているはずであり、そうでない場合は見落としが発生している。
より良くするのであれば、他のより良くする箇所も仕事がしてあるはずだ、という話だ。
それがなされていないのであれば、見落としの話と同じ結末を生むだろう。
意図を気づかない場合も同じ事になる。
ただし、結果的に良くなることもあるが、そういったまぐれは何箇所も起こることではないし、もし起こったらそれはまぐれなどというシロモノではない。
以上、Aを最高点として新たなBを製作した場合は、概ね「パクリ」という不名誉な称号を得てしまうメカニズムの解説だ。
そして、この状態であるBがなぜ不快感を示されるかも、答えは難しくない。
模写というのは、技術を磨く場合に効率が良いとされる。
俺も、模写することを否定しないし、練習としてどんどんやればいいんじゃないか、と思っている。
しかし、それは練習であり、人は練習とエンターテイメントを比較した場合に前者を見たいと思うことはほぼない。
後者のエンターテイメントの流れとして、練習をもエンターテイメントとして見れる一部の人間を除けば。
要するに、練習で金取ったり誇ったりすんな。
技術磨くためにはパクりまくれ。でも、それで人様から金とろうとか、褒められようとかするな。
他人が見たいのはお前の努力じゃなくて、お前の努力の成果なんだ。
という認識から生まれる不快感なんじゃないかとふと思った。
実際どうだか知らない。
オマージュとかリスペクトは、Aという作品を好んで作られた二次創作。
そのAという作品を好んだ人間が、それを同じように好んだ製作者の作成した作品を好むことはありうる。
なぜなら、それは言葉ではなく作品による意志の伝達が行われているからだ。
だから、Aを好む人間が、Aをオマージュ、リスペクトした作品を好むことは多く、Aを好む人間がそれらを非難することはあまりない。
しかし、それで容認されていると言えばそうではなく、Aを特に好まない人や、好意を作品で表明されることそのものに不快を示す人も少なくはないだろう。
なので、オマージュ、リスペクトなどは、容認する人がいくらかいるだけで、立ち位置的にはパクリと同じだ。
ただし、パクリと違うのは目標点がAという作品そのものではなく、別の部分にありうる可能性がある。
そのため、その別の部分に優れていれば、それはそれで評価される。
どっちもどっちじゃね、と思うんだが、実はなんらかの意図がない限り作品作りっていうのはなかなかできないもの。
その意図、いや意欲と言った方が適切か。
意欲が生まれるのは、心底から生まれいづるどうしようもない衝動か、生活、お金、名誉のため。
衝動がAという作品がきっかけであれば、オマージュやリスペクトになるのは自然だ。
また、お金や名誉のためなら稼げそうなAという作品をそのままコピーして練習と、作品という資産を得る方法も視野に入る。
どいつもこいつも、そういった制作意欲というヤツから生まれるもので、否定したとしてもそれらが生産されることは止めることができない。
そして、それらはどうしたってAという作品の影響下にあり、Aなしで評価されるものではなくなってしまう。
それはそれで、存在自体を悪とするわけにも行かず、だいたい全て禁止したら練習するモチーフがなくなって技術がだだ下がりになってしまう。
たくさんの競争相手があって、細微な差異で差をつけるために技術の研磨が行われるのだから。
しかし、生まれいづる作品が全て平等とは言いがたいのも理由がある。
なぜなら、それら二次創作的作品により、真に衝動から生まれた傑作(じゃないものも)も数で押し流す可能性が極めて高いからだ。
それを心配する人こそ、二次創作を忌み嫌う人たちなのではないか。
ということを、むか~しの俺を分析して考えてみた。
いや~、今までパクリというかオマージュやリスペクトはしまくってたけど、自分がパクリすんの嫌いだったんだよね。
今じゃ、作りてえ! と思う衝動の核が別作品だったりしてきたけど、あの頃の自分はなにに創作意欲を燃やしてたのか何となく思い出してきた気がした。
また、仕事でパクリをして、いろんな改善点に気づいていじりたくなったりしたとか。
でもそれは、パクリのまま世に出す気はさらさらないけど。
どうすりゃいいかって?
別に、何かのパクリでもオマージュでもリスペクトでもないもん作りゃいいじゃん。
お前がそう思わずに作りゃ、自然とお前だけの作品になるさ。
ならんのなら才能か技術が足りないんでしょ…俺が言うのもなんだけども。
ということを3週間くらい前に結論した。確か。
たぶんこれで終わり。
古本まつり行ってきた
ニンテンドークラシックミニファミコンとりあえず一通り遊んでみた
ファミコンミニをプレイしているんだが
眠かったのと、ニュー3DS買ってきた
また早起き
最近のアーケードの音ゲーの盛り上がり度合いリスト
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Posted by keel at 00:01│Comments(0)
│ゲーム/メモ