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2012年07月10日

ゲームにも生き死にがある

かつて大学時代、俺の心の恩師の一人(当時法学助教授)が、言葉には寿命がある(もちろん法律にもあるよという感じで)言ってた。

で、まああれから十数年後。


色々考えて、(初めて読んだけど)やっとクリス・クロフォードの言ってることわかったぜ!
と勢い勇んでアナログゲームスタディの連載コラムを読み直してたんだが。

まずは、このコラムで知った話をちらっと。

「クク」というゲーム。

ククは、40種のカードから一枚を持ち、そのカードを隣の人と交換するかどうかの選択が一回しかない。
これで面白いか?
と問われると、ルールによるだろうと思ったら、そうだった。
一番弱いカードの人が総負けというルールのため、「このカードは自分が一番弱いのではないか?」という不安を起こさせるのが目的だ。
特殊カードもあるらしいが、こういうルールであるならば「最強のカードを敗者にできる」や「カードの強さを逆転できる」カードがあるのだろうか。
それ以降はポーカーなんかのベット部分でのゲームになるのかな。


「盤双六」というゲームを用いて、ゲームのルールは変化していくが必ずしも面白く変わるとは限らない話は良かった。
面白くないから廃れるに関しては、当人の言うとおり「結果と原因を逆転して考えている」と、俺は思う(歴史を学び過ぎるとこの思想に入ってしまう事が多い気がする)。
面白くても廃れるものもあるし、面白くなくても廃れないものもあるんじゃないかな。
何にしろ、廃れる原因は「誰もやらないこと」だから。


話の途中で出てくるのだが、「程度の差はあれ、身体的な能力の必要なゲームが、アクションゲーム」という規定も面白い。
具体的には色々線引きは作れるが、説明がはっきりしているので使いやすい。
藤八拳の説明で記述があったが、藤八拳はちょっと微妙なゲーム(じゃんけんをポージングで行うもの)で消えゆく話も記載されていたが、そら(スポーツ要素があってもスポーツにならないから)そう(当たり前のように廃れる)よ。
良く言えば儀式、悪く言えば見世物みたいなものという扱いも仕方ない。


また、「投扇興」という特殊なルールのあるダーツ的に投げて競うゲームがあるんだが、これはゲーム部分よりも音楽を鳴らしてるところに注目した。
藤八拳もそうらしいが、音楽を鳴らしているのだ。
つまり、少なくともこのころからすでに、日本はゲームにBGMを入れるという発想があったということだ。
日本でのゲームミュージックの発展が偶然ではないのかもしれないし、スポーツ応援の鳴り物の源泉なのかもしれない。

なお、「投扇興」の特徴としては、難度と偶然性の高い役の点数が非常に高い点である。
これは、技術偏重を防ぐためによく設計する一手で、桃鉄はこういう要素を強めに入れることでできる限りの初心者離れ(≒初心者が絶対に勝てないようなルール設計)を防いでいる。
無茶なランダム要素というのはこのような技術偏重ルールの抑制に効果的である(決着が判明しにくく、投了のタイミングを遅らせる利点もある)し、わかりやすい勝ちというプレゼントが初心者向けに作用しやすいというのがある。
実際には上級者もそういうのを利用して厳しくなりがちなのだが。

とは言え、「投扇興」の関係者はこの遊びをゲームと捉えておらず、やはり儀式や見世物と同じ線上(儀式や見世物ではないが同じ区分のもの)と扱っているように見える。
こちらも別物でありながら同線上にあるという意味では、連歌やポエム会話なんかもそうだろう。

「投扇興」で重要な点は、ルールにないこと、判定できないことが起こった場合、行事(審判)の見立てで決着を断ずるのである。
これは、野球のストライクゾーンやサッカーのファウルなどにも関わる話だ。
実はスポーツも、審判による主観判定で結果が左右するというのは十分にありうる。


これは、審判を信頼仕切るという設定有りきのルールであり、審判はそういう意味で選手とともに試合を作る立場にある。
コンピュータゲームや、論理的なゲームしかプレイしていないと、その辺のことが理解しづらいかもしれない。
逆にスポーツやTRPGのマスターを経験していると理解しやすい。


コンピュータゲームで重要なのは、こういった「審判の見立てで判定を委ねた部分も、理論で構築しておかなくてはならない」という点だ。
曖昧な設計をするにはそれに通ずる道筋をたてねばならないし、その道筋も曖昧な設計は許されない。
よりよいゲームをプレイするには、アナログゲームであれば、審判の技量とプレイヤーの納得という人間の鍛えられた判断力を利用できる。
コンピュータゲームは、人間の判断を反映するには徹底的にルールの追求をしなくてはならないし、人間的判断を下す審判を作るのであればそのAIを作成しなければならない。


話がコンピュータゲームに戻ったところで、ゲームが死ぬパターンというのを書いてみよう。

たいていはこういう流れだろう、という話はあったが、俺の頭の中ではこんな感じで整理された。

起源→みんな参加する→参加者のタイプが増えてカオスに→ルールを精錬させる→遊びやすくなる→盛り上がって大会とかできる→参加プレイヤーの練度が上がる→ルールをさらに精錬させる→精錬されたルールが、ルールを踏まえたルールの占める割合が増える→新規参入が減り、参加プレイヤーの練度が更に上がる→参加者が先鋭化する→他の面白いゲームが出てくる→気づいたら消える

大まかにはこんな感じかな。
大雑把に言うと、敷居がどんどん高くなって結果的に参加者が減る、というものだ。

作るほうが気をつけないと、対戦や競争がメインでなくてもこのスパイラルに陥る可能性もある。


なんで死にかけるのかというと、以下の流れがあるんじゃないだろうか。

近いシステムや、続編で作っていく場合、どうしても「そのルールに長けたユーザに向けて作るから」というのがある。

ルールを精錬させる場合、細かい部分で「これどうするんだ?」というのをどんどん埋めていく作業が出てくる。
なぜなら、(特にビデオゲームでは)多くの中級者以上は、そういったルールの穴を突くことができるからだ。

そして、ルールの穴埋め作業では、どちらの側に向けて穴を埋めていくかで変わってくる。
その際、ヘビープレイヤーの意見は結構聞けるのだが、初心者側の意見というのは実はなかなか聞く機会がなく、中級者以上のヘビープレイヤーの意見を参考にして精錬する場合がある。

そうなると、その穴埋めの倒し方次第にもよるが、未プレイユーザよりもそのルールの穴の性質を知ってる者が利用してしまう。
そうすることで、明示されたルール以外の部分の認知の差が出る。

これ自体が問題なのではなく、この差でどのくらいの差が出るかの方が大事だ。
この部分の差がでかいと、基礎力として明示されたルール以外の部分の学習がとても重要になる。

この差があまりに大きいと、争いにならない。ひどい場合は、ゲーム自体上手く参加できない。これは、対人・対多数・一人プレイでも同じ状況になる。
小さい差であれば、技術向上の「気づき」が生まれ、興味さえ持てば楽しく学習する流れに持っていける。
しかし差が大きいのであれば、そもそも何をしたら勝てるのか分からなくなる。技術分野・理論分野の要素に対してすら、「運」が左右してると考えてしまう恐れもある。

「運」に頼ったゲームは、基本的に簡単なルールのゲームしか受容されない。「運」で勝敗が決まるほど重要なら、それだけを抽出したほうが良いからだ。
すなわち、「運」ゲーと認知したゲームに対して、面倒なルールへ興味を持つユーザは基本的にいない。
こうして、新規ユーザの獲得チャンスを逃してしまう。

新規ユーザとは、ゲームが生きていく間に必ず必要になるものだ。
ゲームは死なないかもしれないが、人は死ぬ。
死ぬまで行かなくても、そのゲームをやらなくなる可能性というのは十分ある。
当然、ユーザが減る。ユーザが0のゲームは、誰も知らないゲームであり、そのゲームは死んだも同然だ。
だから、新規ユーザというのはゲームが生きていく上で必ず必要になる。

新規ユーザを取りこぼしたゲームは、常にユーザを減らす。
そこでさらにルールの精錬を始めた場合、残ったユーザが納得づくのルールになりがちになるのは前述のとおり。
こうして、ルールの先鋭化が始まり、参加者が減るサイクルに入る。

原因は、ルールの精錬になるだろうけど、実はヘビーユーザの意見というのは割りと正しいことが多い。
理にはかなってるし、数多くのテストをした結果、様々な選択の中でもベストに近い選択をされる場合が多いのは明白だ。
そして、精錬しない場合は、明示ルール以外のルールの穴はもっと利用され、もっと早く死んでしまう。

結果としては、どちらにしろ滅びると言えば滅びる、というのが俺の見解だ。


この話は、死んだから悪いゲームだったわけじゃなく、役割を終えたゲームだったと考えたほうがいい。

例えば、絵双六は今の時代にあまり必要がない。
グラフィカルなすごろくというのは、当時は需要があったかもしれないが、ビデオゲームでいたスト、桃鉄、モノポリー、ドカポン(、百の世界の物語、すごろクエスト、勇者募集中…etc)などがある今は別に要らない。
アナログゲームは実物を作る必要があり、今の時代にグラフィカル性の高いハードを増産するにはコストが高すぎるのもある。

ただし、芸術品としてなら生き延びる価値がある。ゲームも出来るイラストと考えると面白い。役割を終えたゲームも、そういう形で残すこともできる。設計上シナリオ性も付加できる。
また、絵双六自体は盤双六から派生したゲームであるし、先に記述したいたストや桃鉄などは(どういう進化の経緯をたどったかは作者に訊かなきゃわからんけど)、一種の絵双六の発展形態と言ってもいい。


そうやって、廃れた場合にも残る要素を注視し、芸術品となったり、新しい形のゲームの礎になったり、新しいそのゲームに見合った滅び方というものを迎えさせることができる。

最初に紹介したククは、コラムの筆者が作りなおして現代に引っ張りだしてきたというゲームであり、そういう形の蘇りもあったりするけど。


面白かったゲームもいずれ風化する。
それならできるだけ、作られた意義のあるゲームを作りたいものだなあ…というよくわからない結論で話は終わる。


ゲームの生き死にはこれで終わり。


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