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2017年11月30日

いしなご(石投子)

平安朝以前から女兒の間に行われていたもので、石投、石子、石擲石、石投子取、石投取とも書く。現在行われているお手玉の全身であって、その古は小石を以て遊んだのでこの名を得た。やり方はお手玉遊びとほとんど変わらないからここにはその説明を省くが、相当広い範囲に行われていたものとみえて、地方地方によっていろいろの呼び名がある。江戸地方では「オテダマ」、東國地方では「イシナンゴ」、「ナツコ」、信州地方の一部では「ハンネイハナ」、出羽地方では「ダマ」、越前地方では「ナナツゴ」、伊勢地方では「ヲノセ」、中國、薩摩の一部では「イシナゴ」等など。第六十一代朱雀天皇の承平年間にものされた源順の『和名類聚抄』によると「梁武帝千字文注云、宣遼者楚人也、能弄丸八在空中一在中、今人之弄鈴也」とある、丸を空に投げ上げることは漢土から渡来したものかも知れないが、石をもって行うことはわが國によって創始されたものでもあろう。第六十八代後一條天皇の長元七年頃(一六九四頃)その上巻が著された作者不詳の『榮華物語』、月宴の巻に「今の上(第六十二代村上天皇天慶九年―一六一五)御心ばへ、あらまほしく、有るべき限りおはしましけり。醍醐の聖帝、世にめでたくおはしましけるに、またこの御門、堯の子の堯ならむやうに、大かた御心ばへ雄々しう、気高く賢うおはすものから、御才も限りなし、和歌のかたにもいみじうしませ給へり。萬に情あり、物のはえおはします事限りなし。(中略)御子うまれ給へるは、さる方に重々しくもてなさせ給ひ、さらぬは、さべう御物忌などにて、つれづれに思さるる日などは、おまへに召し出でて、ご、すごろくうたせ、へんをつかせ、石などりをさせて、ごらんじなどまでぞおはしましければ、皆かたみに、なさけをかはし、をかしうなんおはしあひける」とあり、また同時代の撰に成る『拾遺集』十八賀に、「春宮の石などりの石めしければ、三十一をつつみて一ツに一ともじを書てまいらせける(読人不知)―苔むさばひろひもそへんさざれ石の数をみなとるよはひ幾よぞ」。同じ時代の女流歌人赤染衛門の歌にも「女院の姫きみときこえさせし頃いしなとりの石をめすを参らすとて―すべらぎのしりへの庭のいしそこはひろふこころありあゆかせてとれ。」というのがある。
第七十六代後白河天皇が保元三年(一八一八)に御譲位あらせられたあと、お撰びになったと傅へられる『梁塵秘抄』には、「羽なき鳥の様かるは、炭取、揖取、掻縺(カヒモドリ)、石取り、虎杖、垣生に生うてふ菝葜(サルトリ)や、弓取、筆取、小弓の矢取とか」、と記されている、どういう意味か解しかねるが当時の今様風のものではないかと考えられる。現在行われているこの遊びにはお手玉をとりながら必ず「一、二、三、四」などなど数を読むのが普通となっているが、その昔はされおき、源平時代にはすでにその数が読まれていたことが『源平盛衰記』巻三十四、知康藝能の條に書かれてある。『源平盛衰記』は著者・年代とも明瞭でないが、第八十六代後堀河天皇の嘉禄二年(一八八六)から、第百七代後陽成天皇の慶長四年(二二五九)までに記述されたものといわれる。
「子息左衛門督賴家の、未だ少くて十萬殿と申しける時、招き寄せ給ひて、あの知康は九重第一の手皷と一二との上手ときく、是にて皷と一二と有るべしといへとて、手皷に砂金十二両取添えて奉り給ひたれば、十萬殿是を持ちて簾中より出でゝ知康にたびて、一二と皷と有るべしと、勤め給ひければ、知康畏って賜って、先づ皷を取って、初めには居ながら打ちけるが、後には跪き、直垂を肩脱ぎて様々打って、結句は座を起つて、十六間の侍を打廻って柱の本ごとに無盡の手を躍らしたり、宛轉たり、腰を廻し肩を廻して打ちたりければ、女房男房心を澄し、落涙する者多かりけり。其後十二両の金を取りて云く、砂金は我朝の重賓なり、輙く争か玉に取るべきと申して、懐中する儘に庭上に走り下りて、同じ程なる石を四とり持ちて、目より下にて、片手を以て数百千の一二を突き、左右の手にて数百萬をつき、様々乱舞して、をうゝ音(こゑ)を擧げて、よく一時突きたりければ、其座に有りける大名小名、興に入りてゑつぼの會なりけり。兵衛佐も見給ひて、誠皷というとは名を得たるものと云うに合いて、其験ありけりとて感じ入り給へり。」
降つて第七十四代鳥羽天皇が保安四年(一七八三)に御譲位あらせられてから北面武士として親寵を蒙った佐藤義清、西行法師がものした『山家集』にも「石なごの玉のおちくるほどなきに過ぐる月日は変わりやはする」という一首が残されている。徳川の末期第百十九代光格天皇の文化十一年(二四七四)村田春海の著、『笠志船物語』に「いかなる名ぞとの給へば、守千引とよべば、かしこまりておまへにいで、丈立ち高く、太かに肥たり、君は雄々しのさまよと見給う。これなん力ある事人にすぐれ侍る。千人引之岩をも石投取の石とる計りにとりなし侍れば、然なん人のよび侍る」とある。第百十八代後桃園天皇の安永年間にものされた谷川士清の『和訓栞』に「法隆寺の賓物にいしなどりの玉あり、小兒の語に小石をいしなという、伊勢に石名原あり奥州に石名坂あり云々。」第百二十一代孝明天皇の嘉永六年(二五一三)に刊行された喜多川守貞の『漫稿』には「いしなごと云、今京阪地方にてはいしなごとりと云、女童集り各々小石或ニ、或三つを集め一童持之席上に抛蒔き其数石の内一石を取り、是を尺ばかり或は二尺三尺上になげ上げ、落来る間に二石をとりて後、落る石を受け席上の石とり盡せば再蒔散之、今度は三石ずつを取て落る石を受、三四囘に至り畢とす。半に受過る時は次の童に譲る云々」と書かれている。文献に示されてから九百餘年、殆ど千年近くの間多少の変化があったにしろ、そのままに傅へられてきた遊びはまづ珍とするに足りよう。

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